「留学史(32)」(2022年11月16日) 1941年末、スジョノの家に来訪客があった。やってきた陸軍高級将校はスジョノに、 軍最高司令官の命令であなたを訪問したと言い、ジャワ島攻略に手を貸してくれないだろ うかと尋ねた。ジャワ島進攻軍と一緒にジャワ島に上陸して通訳の仕事をするのが求めら れている仕事だ。受けてもらえれば大佐の階級が与えられ、軍人として行動できる。 スジョノはそのときのことを後になって、「はい」と言う以外に選択肢はなかったと語っ ている。だがそれは決して自分の望まないことを無理して行う行為ではなかった。オラン ダ人を祖国から追い払う日を夢見ていたスジョノは自ら蘭領東インド崩壊の現場に立ち会 ったのだ。 軍人とは無縁の世界で生きてきたスジョノにとって、そしてまた軍隊というものを実感し た体験も皆無なスジョノにとって、軍隊に入れと言われたら当惑して当然だろう。日本軍 が自分に期待しているものは何なのか、かれはそれを知りたかった。 「ジャワに進攻する目的は何ですか?」 「あなたの同胞をオランダの支配から解放することです。」 「わたしは何をお手伝いすればいいのでしょうか?」 「あなたの仕事はたくさんあります。インドネシアの各界指導者とわれわれの間に立って いただかなければなりません。」 「それならわたしにできることです。やりましょう。」 スジョノがジャワ軍政監部で翻訳部門長として働く一方、妻の伯父にあたるスバルジョも 日本海軍に奉職してジャカルタの海軍武官府調査部長になった。日本敗戦の直後、インド ネシア独立宣言がなされるべくスバルジョが一世一代の大活躍を果たしたことは知らぬ人 とてない。インドネシアの歴史を変えたそのときの状況は「独立宣言前夜」に詳述されて いるので、ご参照ください。 「独立宣言前夜」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hroklamasi.html 日本軍政下に置かれたインドネシアは、長引く戦争の中で生活物資が枯渇するようになり、 モノ不足という貧困が全土を覆った。軍政監部の役職者であるスジョノの家庭が貧困であ るはずはなかったと思うのだが、妻のレッノワティの回想によれば、野菜やコメ、ニワト リなどの食材を得るために家具やカーペットやカーテンを売ったりバーターして暮らしを 立てていたそうだ。 三年半の日本軍政が終わりを告げたとき、スジョノは再びジョヨボヨの予言の締めくくり に立ち会った。北からやってくる黄色人の統治が百日間続いたあと、1945年8月17 日にすべての予言が実現して終わったのである。 スジョノの著書には1930年代に日本留学したインドネシア人の名前が16人上がって おり、さらにそこに入っていないインドネシア連盟設立者やヘラワティたちを加えると2 0〜30人くらいの数に上っていたようだ。ところが40年代に入ると、状況はがらりと 変化した。 1941年に太平洋戦争が始まると、東南アジアと日本間の一般人の往来はほとんど不可 能になった。そんな状況の中で、東南アジアの有望な青年たちを日本に留学させる企画が 採り上げられた。南方特別留学生という政府プロジェクトだ。 対象になったのは現在のマレーシア・インドネシア・ミャンマー・タイ・フィリピン・ブ ルネイの日本占領下の地域の原住民で、1943年入学の第一期生は104名、1944 年入学の第二期生は101名の合計205名がその人数だった。すべて男子に限定され、 中等教育学歴と優秀な人材であることを条件にして各地域の統治行政者に選抜された青年 たちだ。[ 続く ]