「留学史(35)」(2022年11月21日)

数日後に各グループは教官に引率されて海峡を越え、本州の西端下関から汽車で東京に向
かった。客車の窓はすべて板が張られて外の景色が見えないようになっており、夜になる
と漆黒の闇に包まれて客車内部まで見えなくなった。

一行は東京でまず日本語の勉強に取り組んだ。1943年7月から翌年3月までの9カ月
間、かれらは寮に入って日本語学校に通った。戦前に目黒のアメリカンスクールだった建
物で国際学友会が日本語教育を行った。勉強は日本語だけでなく日本の歴史と文化、そし
て習字もカリキュラムに入っていた。

留学生が入った寮は中目黒に建てられたばかりの建物であり、かれらの全員が個室を与え
られた。そこから学校に近かったので、徒歩通学した。二列縦隊で列を組み、毎日交代で
全員がリーダーを務めた。夜は21時の就寝時間前に点呼が行われて、不在者や体調の良
くない者の確認が行われた。

その期間、留学生たちは東京や近辺の観光旅行を行った。皇居、明治スタジアム、明治神
宮、軽井沢、浅間山、長野などへ、日帰りや泊りがけの旅行が行われている。

東京の寮に入って生活を始めたとき、日本の一般庶民の暮らしから砂糖・コーヒー・卵・
パン・ケーキなどのおいしい食べ物や飲み物が欠如していることが分かった。そのころ日
本では衣服や食材その他生活必需品が配給制度になっていて、だれもが不足の中で暮らし
ていた。これならインドネシアの方が食べ物はまだ豊かだ。

毎日食べる食事はご飯と魚とみそ汁、そして福神漬けと沢庵だった。肉が食べられる機会
は本当に特別の時に限られた。寮ではパンと牛乳が与えられた。留学生仲間のひとりが腹
をこわしてご飯が食べられなくなったとき、他の者はかれのご飯と自分の牛乳をバーター
した。巷の食堂は名前だけで、供されるのは黒色の海藻のおかずだけ。麺類すら作られな
かった。飲み物はカルピスがあっただけ。


不断の空腹に悩まされている留学生たちにも、腹を満たすチャンスは時おり訪れた。その
年の8月、スタルジョ・カルトハディクスモ率いる20人のジャワ使節団が日本を訪れ、
留学生たちは第一ホテルでの昼食会に招かれた。空腹者たちはおいしいパンやシーフード
を心行くまで味わった。

その年の11月にはスカルノ、ハッタ、キバグス・ハディクスモが東京を訪れ、インドネ
シアの留学生を招いて軍人会館で昼食会が開かれた。学生たちは薄汚れた学生服でなくス
ーツにネクタイ、頭にペチをかぶって軍人会館に集まった。

ブンカルノはスピーチの中で、「みなさんが砂糖を長い間味わっていないという話を聞い
た。それで砂糖を土産にしようかと思ったのだが、それはやめた。砂糖は、われわれが生
きるために不可欠なものではないからだ。」と語り、土産の黒色ペチを全員に配った。

留学生を代表してスディオ・ガンダルムがスピーチをし、「バパが土産にペチを選ばれた
のは、われわれがインドネシアの闘争を忘れないようにとの戒めです。」と土産の話に応
じた。


日本の民間人が食事に招待してくれることもときどき起こった。1944年の正月祝賀の
一日、スタマを横浜に住む一家が招待したので、スタマはアドナン・クスマとサム・スハ
エディを誘ってそのお宅を訪問した。そのお宅は家の裏手で製飴工場を経営していて、三
人は帰り際に飴をどっさり土産にもらったそうだ。

その一家には二人のお嬢さんと一人の高中生の息子さんがいて、お嬢さんはきれいなピン
クの和服で三人を応接した。お姉さんが琴で六段を演奏すると、サムが琴に興味を持って
その音律を調べた。そして驚いたことに、スンダの多絃楽器クチャピのペロッ音階と同じ
音律であることが判った。サムは六段のお返しにパロンスンダを琴で演奏して見せた。ス
タマはスンダ歌謡を唄い、アドナンは立ち上がってプンチャッシラッの形を示して見せた。
ご主人は大喜びで、いろいろな料理をあとからあとから持ってこさせたそうだ。[ 続く ]