「留学史(37)」(2022年11月23日)

9月半ばごろに外務省からの状況説明があった。日本政府は奨学金の支給を禁止されたの
で、みなさんの生活費を支給することができなくなった。帰国するのも日本で学業を続け
るのもみなさんの自由だ。日本に残りたい人はいますか?するとふたりが手を挙げた。そ
のとき他の者は帰国を考えていたのだろう。しかしインドネシアに向かう船がないために、
全員が日本に残らざるを得なかった。そのころのインドネシアは、終戦処理と旧態復帰の
ためにAFNEI軍がインドネシア暫定統治の準備を進めている最中だったのであり、独
立宣言をしたインドネシア共和国とひと悶着起こるのは火を見るよりも明らかだったのだ
から。

外務省高官は留学生全員に5千圓を渡し、帰国するしないはみなさんが自由に決めればよ
いです。いつまでも日本に滞在できるようにしておきます。この5千圓が無くなったら、
ご自分の手で生活費を得るようにしてください。というのが説明会の内容だったそうだ。
だがそのときは大金と思われた5千圓も、その後のインフレ昂進でいつまで持っただろう
か。


生活面もさることながら、学業のための化学工学の実習実験に金がかかったために、アド
ナンは京都ホテルにオフィスを構えている駐留米軍行政部門の事務員になって働き、学業
を終えて修業証書を得た。かれは大阪の駐留米軍オフィスでも働いたことがある。そのと
き、そのオフィスに努めている神戸出身の日本女性と知り合って結婚した。

アドナンの結婚式は同じ留学生で久留米以来の仲間であるモハマッ・サルジと一緒に行わ
れた。サルジも神戸出身の日本女性と大阪で知り合って結婚した。ふたりは1950年に
妻を伴ってインドネシアに帰った。


ヨガ・スゴモやスジャルウォコ・ダヌサストロら5名は農学の専攻を希望し、宮崎農大へ
行くことが決まった。インドネシア5人、マレーシア3人、ビルマ2人の留学生が宮崎に
移動し、他の日本人学生20人と同じ学寮に入った。

1945年3月、宮崎での学業を終えた10人の特別留学生は久留米工大に移動して熊本
大学で医学を学んだ留学生と合流し、京都帝国大学に移った。京都帝大には先に法科・工
科・医科などの留学生がいて、九州から移ったかれらはそこに合流した。東京・大阪・名
古屋は戦火で焼かれたが、京都と奈良は安全だった。

1948年3月に京都大学は、特別留学生のうちで十分な成績で学業を全うした学生に学
士号を与えて卒業させた。スジャルウォコ・ダヌサストロの回想録によれば、京都大学で
の学業のかたわらで、1947年9月から米国の進駐軍オフィスで数人の仲間と一緒に事
務仕事をするようになったそうだ。オフィスは京都ステーションホテルにあった。仕事を
得たかれは最後の一年を学業に励み、1948年に学士号を得て卒業した。その後も進駐
軍オフィスでの仕事を続け、1950年に完全独立を達成したインドネシアに戻るため日
本を去った。


スマトラのパンカルピナン出身者ダラミ・ハサンは、スマトラから6人の仲間と共にシン
ガポールに行き、アワ丸で門司に着いた。そして東京で日本語を学び、1944年4月に
広島の文理科大学へ入った。かれはそこで初めて体験した西洋音楽の楽器演奏の魅力に取
りつかれ、それがかれの後半生を変えてしまうことになる。

広島での学業を終えたかれは福岡帝国大学で政治経済学を学ぶ希望を提出して承認され、
福岡へ移った。ところが大学はかれに福岡高等学校最終年を修業することを条件付けたた
め、45年に高等学校に入った。そしてある夏の夜、米軍機の大空襲が福岡を襲ったので
ある。福岡は焼け野原になった。留学生は久留米の寮に収容された。

そのことを知った広島の仲間たちが広島に来いとかれを誘った。そのとき、広島はまだ無
傷だった。かれはその気になって広島への移動許可を申請した。ところが警察が許可を出
さなかった。情況はますます悪化しており、外国人は久留米の町から出てはならないこと
になっているという話だった。[ 続く ]