「留学史(40)」(2022年11月28日)

国際学友会での9ヵ月に渡る日本語学習が終わり、1945年3月に専攻希望を提出して
留学先の学校が決められた。第一期生のときには陸軍士官学校が選択肢に入っていなかっ
たのだが、45年になって方針が変わり、陸軍士官学校への入学が認められたため、第一
期生と第二期生がたくさん士官学校を希望した。オマルもその中のひとりだった。

そして8月15日がやってきて日本の軍隊は解散し、全留学生は元いた国際学友会の寮に
戻された。すべての学校が閉鎖され、奨学金が得られなくなった留学生たちは、駐留米軍
で働き口を見つけて働き始めた。事務・雑用・通訳・運転手など仕事はいくらもあった。


生きることに追われる日々の中で、自分が無事でいることを故郷に伝え、また故郷の様子
を知りたいとみんなが思うようになった。しかしインドネシアとの通信は閉ざされている。
郵便物を送っても、オランダ支配地域を通過して共和国支配地域に届くはずがあるまい。
1947年のある日、オマルは新橋の国際赤十字に相談を持ち掛けた。

すると電報用紙のような紙をくれて、そこに25語以内で通信文を書け、と言う。かれは
その用紙をもらって留学生仲間に配り、みんなが書いたものを集めて赤十字に届けた。お
よそ6カ月後、国際赤十字からかれに電話があり、返事が届いていることを知らせてきた。
12通の返事が届いていた。


オマルが九段下の極東空軍で電話交換手の仕事をしていたころ、イスマイル・アブカシム、
オマル・バラッ、ハサン・ラハヤの三人がかれの持っているOSSカードを買いたいと言
い出した。毎月1万円をくれると言う。オマルは電話交換手として月給7千2百円を得て
おり、宿舎と食事と洗濯が無料になっていたから、まったくの余裕ある暮らしをしていた。

そこに1万円が加わるのだ。オマルはその話に乗った。すると日立がプリマス乗用車を買
うためにそのOSSカードを使い、かれに毎月1万円くれることになった。月収がいきな
り4倍近くになって、かれの金銭面の不安は消えた。

他にもナイトクラブでのギター演奏の声がかかって収入が増え、またオマル自身も闇商売
を行うために一度売り渡したOSSカードを有料で使うこともした。


同じ留学生仲間が集まって新宿にレストランを開き、ブンガワンソロと命名した。そこで
オマルはサテとガドガドの調理を担当した。このレストラン事業で一番得をしたのはオマ
ル・ハッサンだったとかれは書いている。なぜならこのレストランがきっかけでかれは妻
を得たのだからだ。

妻と言えば、ムスリム留学生たちの結婚にかれと数人の仲間がしばしば立ち会った。イス
ラム教徒でない日本人女性をムスリマにするために、代々木上原のモスクでプンフルを前
にして女性にシャハダッを唱えさせなければならない。オマルはシャハダッを覚えさせる
仕事を担った。

たいへん頭の良い女性が練習のときにすらすらとシャハダッを唱えるから太鼓判を捺して
安心していたら、当日になって緊張のあまり間違いが続出し、往生したという話もある。


1945〜1948年の日本での暮らしは日本人にとっても在留外国人にとってもたいへ
んなものだった。オマルはしばしば東京近郊の農村へ買い出しに出掛けた。汽車の中はい
つも満員で、しかも戦場からの帰還兵がたくさんいて、雰囲気は殺伐としていた。

かれは大きいリュックサックをふたつ持ち、農家を訪れてはナス・カボチャ・トマト・キ
ャベツ・大根などを袋に詰め込んで寮に持ち帰った。そしてみんなで料理して食べた。買
い出し旅行はオマルにとってたいして苦になるものでもなかったが、汽車の中でもらって
くる害虫に辟易したそうだ。寮に戻ると、服の袖の下にたいていノミが何匹もへばりつい
ていた。[ 続く ]