「留学史(46)」(2022年12月07日)

20人の南方特別留学生ジャワ組と4人の私費留学生はタンジュンプリオッ港から船でシ
ンガポールに向かった。南方特別留学生は教官に率いられていたが、私費留学生は自分た
ちの付添い者と一緒に別グループでいることが多かった。そして場合により必要に応じて、
私費留学生も特別留学生に混じることがあった。適宜、臨機応変の行動が取られていたよ
うだ。

他国の留学生が集まり、日本行きの船の準備が整うまでの間、留学生はシンガポールを楽
しんだ。ほんの数年前にシンガポール最大の激戦が行われたブキティマ高地を見学し、そ
のときの戦闘にマンクヌゴロ軍団の一部が連合軍側に混じっていたことをかれは知った。
なんとスラカルタからここまで戦争をしにやってきていたのだ。日本軍政下のシンガポー
ルにも歓楽街があった。留学生の中には、新世界と名付けられた歓楽街で生まれてはじめ
てストリップショーを見物した者もいる。


1943年3月、1万3千トンの大型船がシンガポールを出て南シナ海を北に向かった。
多数の軍艦が周囲を哨戒し、船隊は何日も海上を航行する。沖縄に近付いたころ、昼食前
のデッキでスパルトは5人の仲間や付添い者と談笑していた。そのとき、どうしたはずみ
か全員が一斉に青く澄み渡った空を見上げ、そして全員が視線を落として顔を見合わせた。

「ラトゥキドゥル」というつぶやきがだれかの口から洩れた。緑の衣装に長い髪を垂らし
た美しい女神の姿がみんなのイメージの中にあった。ところが不思議なことに、胸を覆っ
ている胴着の色だけが、それぞれのイメージの中で異なっていたのだ。

みんなは昼食の席に移って、それぞれが体験した怪異を話し合った。インド洋の主がどう
して南シナ海に姿を表したのか。それは解けない謎だった。

昼食が終わってまたデッキに戻った時、周囲は戦闘態勢に包まれていた。各艦の信号灯が
忙しく通信を交わしている。後方にいた駆逐艦がスピードを落とした船を追い越して前方
に進出し、戦闘位置に就いた。更に油槽船が一隻、船の横を追い越して前進していった。
そして次の瞬間、スパルトたち6人の顔が引きつった。油槽船は突然轟音を発して火の玉
になり、二つに折れて沈没していったのである。米軍潜水艦の魚雷攻撃だった。

沈んでいった油槽船の傍を船が通り過ぎるとき、船のクルーの中に皿やコップなどを海中
に投げ込んでいる者がいた。没した海の仲間に捧げる花びらの代わりだったようだ。ラト
ゥキドゥルが姿を見せたこととその敵襲に関係があったのかどうか、結論はいまだに得ら
れていない。


船は最終的に下関に到着した。宿に入ってから夕方16時にお風呂をどうぞと勧められた。
スパルトは数人の仲間と一緒に浴室に入った。すると女性が数人、浴槽の中で湯に浸かっ
ているではないか。みんなは慌てて外に出て、板の間で女性たちが出るのを待っていると、
宿の使用人がそれを見て、みんな中に入ってくださいと言う。これは日本の伝統習慣なの
だから、習慣を守るのは悪いことではないのです、と説明した。留学生はしかたなく、日
本の伝統を尊重して恥ずかしそうに入って行った。

東京に着くと、教官に引率された留学生たちは都内名所めぐりを行った。私費留学生は行
く先が少し違っていた。帝国議会議事堂・陸軍省・製鉄工場・戦車や武器兵器製造工廠な
どが訪問先に入っていた。

そして、目黒の国際学友会での日本語学習が始まった。1944年3月になって、留学生
は各地の大学に散って行った。スパルトは年齢が低かったためだろうか、ビルマの大統領
の息子と一緒に東京の師範高等学校に入った。


数カ月がすぎて、日本の高校生暮らしが板についてきたスパルトはある日、まったく気分
がすぐれず、食欲もなく、学校へ行く元気もないので、ぶらぶらと外へ出てから山手線の
電車に乗って一日中車内に座っていた。それが三日間続いた。

三日目の夕方、かれが寮に戻って来ると、寮の責任者がかれに尋ねた。「あなたはマンク
ヌゴロの王子か?」スパルトがそうだと答えると、手にしていた新聞を見せられた。第一
面のトップ記事に、マンクヌゴロ7世死去のニュースが載っていた。
「帰国したいか?」
「もちろんです。」
[ 続く ]