「留学史(48)」(2022年12月09日)

出発のためにジャカルタへ行くと、スパルトが乗るのはダコタ型旅客機で、日本軍高級将
校を含む十人が乗客だった。飛行予定はジャカルタ→シンガポール→バンコック→香港→
東京という旅程になっていたが、飛び立ったとたんに機はスラバヤに向かった。機体を修
理する必要があるというのがその理由だった。スパルトを悪い予感が襲った。出だしから
これでは、東京へもスラカルタへも戻ることができなくなるのではないか?

かれはスラバヤに住んでいる伯父(マンクヌゴロ6世の息子)を尋ねてみることにした。
自分の迷いに何らかの示唆を与えてくれるかもしれない。そのときかれは、もしも自分の
信頼する誰かから「日本へ行くのはやめろ」と言われたら、それに従う心理状態になって
いたようだ。

ところが伯父は外出していて自宅におらず、外出先の場所まで行ってみたものの、そこに
も伯父はいなかった。それで自分の生みの母を探してみることにした。かれの生母もスラ
バヤに住んでいたのだ。ところが生母も自宅におらず、会うことができなかった。かれは
自分が乗っている線路の上に踏みとどまることにした。


翌日、修理が終わったダコタ機はマカッサルに向けて出発した。機がカリマンタンの密林
の上を飛行中、エンジンの動きがおかしくなった。ゴホゴホと咳をするようになったのだ。
行く先がマカッサルからフィリピンのダヴァオに変更された。乗組員のひとりが、この操
縦士は滞空時間一万時間の強者だから心配には及びませんと乗客を安心させた。その誉め
言葉が効いたのか、ダコタ機は無事にダヴァオの飛行場に滑り込んだ。

ダヴァオで一泊することになり、宿に入ってのんびりしていると、上流ジャワ語で挨拶す
る声が聞こえたのでかれは驚いた。やってきた者たちはマンクヌゴロ軍団の兵士で、東カ
リマンタンのタラカン防衛軍に配備された者たちだったそうだ。かれらはタラカン陥落に
際して日本軍に捕まり、捕虜としてダヴァオに抑留されているとのことだった。マンクヌ
ゴロ軍団はなんとあちらこちらの戦場で日本軍と干戈を交えたことだろうか。


ダヴァオでも修理は終わらず、機はさらにマニラへ飛んでやっと最終的に修理が完了した。
マニラでまた一日が費やされたのだ。日本からジャワへ戻る時、たったの19時間で戻る
ことができた。ところがジャワから日本へはもう四日もかかっているのに、いまだにフィ
リピンをうろうろしているではないか。自分は本当に日本へ戻ることができるのだろうか?
マニラには部品が潤沢にあり、ダコタ機は完璧な調整を受けて最高の調子になった。いよ
いよ無事に日本に到着できるだろう。そんな期待を乗せてマニラを飛び立ったのはいいが、
伏魔はしつこくスパルトをつけねらう。

機は沖縄の上空を通過した。その直後、米軍偵察機と鉢合わせしたのだ。機は高度を上げ、
右に左に機体を振って敵機の銃撃を避ける。銃撃音が客席の中まで聞こえてくる。操縦士
が窓を閉めるように言うと、乗客はすぐに従ったが、みんなの表情は緊張で引きつってい
た。

機がまた斜めに横滑りした。右翼に銃弾が数発当たったショックが感じられた。そのあと
平常の水平飛行に移ったのは、敵偵察機が引き上げたためだったようだ。右のプロペラは
動いておらず、翼上の窓は飛び散った油がべっとりと付いていた。発火しなかったのが奇
蹟のように思われた。操縦士は沖縄に着陸することを決めた。

機はどんどん高度を下げて海面に近付いて行く。操縦士が乗客に言った。「指示するまで
海に飛び込まないように。」客席の高級将校のひとりは、軍刀を立てて柄を握りしめた。
硬い表情をしている。スパルトも自分のカバンからクリスを取り出し、抱きかかえた。だ
が、自分の人生がこれで終わりになるとは少しも思えなかった。父が物語った人間の生き
る道を自分はまだ一歩も踏みしめていないじゃないか。そう思った瞬間、機体はまた高度
を上げ始めた。海面に突っ込むことはなさそうだ。[ 続く ]