「留学史(49)」(2022年12月12日)

しばらく波頭が見えるくらいの高さで飛行を続けたダコタ機は、何かに衝突して止まった。
止まるまでの数秒間、機体は激しく上下し、乗客はみんな客席で振り回された。操縦士は
操縦席から降りて扉を開き、にこにこと笑いながらスパルトの肩を叩いて機外に出てもい
いと言った。しかし乗客のだれひとりとして、起き上がってベルトを外す者はおらず、椅
子の周りでぐったりとしているばかりだ。

みんなが人心地ついて椅子から起き上がり、機外に出てみると、そこは砂浜で、波打ち際
からそれほど離れていない場所だった。遠くの方からサイレンがこちらに向かって近づい
て来ていた。


乗客はみんな操縦士に礼を述べ、迎えの車に乗って那覇の町に送られ、立派な宿に泊まっ
た。翌日の夜にはその宿で無事に日本に戻った祝の宴が催され、沖縄の芸者をあげて飲め
や唄えのパーティを楽しんだ。

スパルトの隣でかれの給仕をした娘は、必ず近いうちに沖縄が日本の最前線になるとかれ
に語った。自分たちは日本の盾になって最後の血の一滴まで振り絞り、皇国を蹂躙しにや
ってくる敵と戦うのだとまだ年若い娘は物語る。今こうして会っているわたしたちは、こ
の世で二度と会うことはないでしょう、と語る娘の毅然とした顔に、スパルトは哀しみを
感じた。

翌日、一行は東京へ向かうために用意された飛行機に乗った。数機の戦闘機に護衛された
飛行機は無事に東京に着いた。スパルトは戻るところまで戻って来たのだ。寮に戻ったス
パルトに留学生仲間たちは失望の言葉をかけた。「日本に戻って来るなと言ったじゃない
か。ここにいても、何もいいことはないぞ。」


一年間の学生生活が終わり、1945年3月に次の留学先学校の選択が行われた。去年の
選択肢の中にはなかった陸軍士官学校が、今回の選択肢に含まれていた。自分はこれを待
っていたのだとスパルトは感じた。

空軍のパイロットにだけはなるなと父は存命中、かれに忠告していた。もしも飛行機乗り
になる運命がこの先に待ち構えているのなら、自分はその運命に従ってみるまでのことだ。
きっと父は苦笑いして許してくれるだろう。とりあえず、士官学校の教育訓練は飛行機乗
りに関係のないものだ。

士官学校の留学生は、中国人と満州人が最大のグループを占めていた。そこにインドネシ
ア・フィリピン・ビルマ・タイの学生が加わて大所帯になった。最初は学科と実地の教育
訓練が半々くらいになっていたが、そのうちに屋外訓練がほとんどを占めるようになって
いった。いつも駆け足が強制され、常に何かに急き立てられている雰囲気にスパルトはな
かなかなじめなかった。


そんな状況がほんの数カ月続いてから、戦況の悪化が強く感じられるようになってきた。
米軍爆撃機B29の大編隊による本土爆撃が激しさを増したのである。毎日昼間、8千メ
ートルという高高度を二三機のB29が偵察飛行する。そして夜になると、21時ごろか
ら午前3時ごろまで、少なくても30機、多い時には150機の大編隊が街々を襲い、焼
夷弾を雨あられと降らせるのだ。そんな高高度を飛ぶ敵爆撃機に対して日本側対空砲火は
何の効果も持っていなかった。

しかし日本軍がただ手をこまねいてそれを見ているだけでもなかった。知恵者はどんなと
きにでも出現するものなのだ。あるときの空襲で、日本軍戦闘機が一機、高高度まで上昇
してからB29の背面に自分の機体を乗せた。馬乗りになったわけだ。B29は失速して
墜落した。B29のような超大型機は真っ逆さまに墜落しない。放物線を描いて落下し、
地上でおよそ百メートルくらい滑る。たいてい乗組員は11人で、中に落下傘で脱出する
者もいたが、地上に待ち構えているのは日本人による虐殺だった。

戦闘機を操縦していたのは中尉で、その戦法はまったく本人の発案だったようだ。この中
尉は数機のB29をその方法で撃墜し、最後に落下傘降下した。だが空中を漂っている中
尉の身体を、米軍の護衛戦闘機P51が粉みじんにしてしまった。[ 続く ]