「留学史(50)」(2022年12月13日)

P51と言えば、B29による絨毯爆撃とは別に、日本近海まで進出してきた米軍空母部
隊から発進してくる1百機から1千機を超えるP51大編隊による機銃攻撃にも日本側は
閉口した。

日本の軍隊組織の基盤に置かれていた武士道精神は米軍のその戦争のやり方に対してまっ
たくなすすべを持たなかった。だが明治以後の大日本帝国軍の栄光を支えた武士道精神は
最後まで日本軍の枠組みを支え続けて日本軍と共に消滅したのである。日本軍の一兵に至
るまでそのドクトリンで精神を固めるために神聖なる精神を注入し、無意味な暴力を振る
って人間の精神を鍛練した努力は、そんな精神をかけらも持たない人間の考え出した戦法
によって完膚なきまで叩き潰されたのだった。スパルトの目はそれをしっかりと見ていた。


ある夜、明治の開国以前から外国人に開かれて一種の租界を形成してきた横浜が、その後
の百年足らずの歴史の中で日本最大の港湾都市のひとつに発展した横浜が、5百機を超え
るB29の数波に渡る絨毯爆撃を受けて灰燼に帰した。百年近い歴史が一夜で消滅したの
だ。相武台の陸軍士官学校と横浜の町は40キロもの距離に離れていたが、その夜、士官
学校の留学生たちはまるで近所で焚火でも行っているような熱風を一晩中感じていた。

話では、ナチスドイツが降伏する前、米軍は7百機のB29大編隊を送り込んでドイツ最
大の港町ハンブルグを焼け野原にした。横浜大空襲はその先例に倣ったものだったのかも
しれない。

陸軍士官学校が米軍の標的にされなかったわけでもない。厚木の飛行場に近い位置にあっ
たために、米軍の飛行場襲撃部隊は士官学校にも銃口を向けた。飛来した数機のP51が
銃撃を開始したために、留学生は全員が防空壕に退避した。スパルトはそのとき身支度が
まだ整っておらず、片足のゲートルが巻かれていない状態で退避のために走ったから、ゲ
ートルがほどけてどこかになくなってしまった。

それを見た教官はスパルトをこっぴどく叱りつけ、連帯責任として隊の全員にゲートルを
探させたが、発見されなかった。フィリピン人留学生の隊員がスパルトのへまを口汚く罵
って、おまえのせいで無関係の俺までがこんなことをさせられる破目になったのだと苦情
した。すると喧嘩屋で定評のあるハサン・シャディリがそれを受けて立ち、英語で罵り合
いが始まった。と見る間に殴り合いに移行し、他の者たちの仲裁で殴り合いは収まった。

数日後、スパルトがミンダナオ出身のフィリピン人留学生と話しているとき、かれらは北
のカトリック教徒フィリピン人をたいそう嫌っていることを明らかにした。種族文化の中
に植え付けられた価値観の違いは、政治的な立場の違いとはまた異なる対立を種族間にも
たらすものだった。


陸軍士官学校での教育訓練はほんの数カ月のうちに空襲の真っただ中に置かれるようにな
り、勉学どころでなくなった。学校側は留学生にフィールドトリッププログラムを与えて
安全な地方を巡遊する活動を命じた。インド・ビルマ・マラヤ・フィリピン・インドネシ
アの留学生は7月中旬に汽車で会津に向かい、そこから福島〜栃木〜日光へと回った。そ
して日光の見学を終えた後、東京に戻るために汽車は宇都宮を目指し、そこで悲劇が起こ
った。

突然飛来したP51が数機、列車に向かって銃撃を行ったのだ。列車は止まろうとした。
すると指揮官は隊員に何の指示も与えずにスピードを緩めた客車の窓から外に飛び降りた。

教官が「下車!」と叫んだが、その瞬間客車の屋根を機銃弾が何発も襲った。仲間が数人
倒れた。スマラン出身のスロソが一番重傷だった。スロソは宇都宮の陸軍病院に運ばれた
が、帰らぬ人になった。かれは死の間際に力を振り絞って暴れ、日本を罵って死んでいっ
たという話だ。指揮官は葬儀の場で目に涙を浮かべ、「俺がお前を殺した。許してくれ。」
と参列者の前ではっきり述べた。[ 続く ]