「グラメラ(16)」(2022年12月13日)

採集してきたニラは自宅の台所の炉にかけられた大鍋に移される。この段階では火の取扱
いがたいへん重要なファクターになる。同じ火力で何時間もニラを煮詰めなければならな
いのだ。この台所作業はたいてい一家総出になる。お呼びでないのは赤ちゃんと幼児だけ。

鍋に入った不純物を取り出す者、火の具合を調節する者、薪を用意する者。妻と子供たち
がこの台所仕事を担当し、朝食作りと同時進行で行われる。ニラを台所に渡した夫は朝食
ができるまで畑仕事に精を出す。かれらの一日の時間割がたいへん効率よく組まれている
ことがよく分る。グラメラ生産は換金物品生産活動であり、畑仕事は一家の食糧の自給活
動なのだ。

ニラを煮詰める作業は昼食後に終わる。煮詰まったドロッと重いニラは熱が均等に分散さ
れるようかき混ぜ続けられる。昼食が終わると、まだ熱いグラメラをヤシ殻に入れて冷や
す。ヤシ殻は濡らしておき、冷めた成形グラメラを取り出しやすくしている。取り出され
た半球状のグラメラは2個抱き合わせてトウモロコシの皮やバナナの葉で包装し、最寄り
のパサルに持ち込んで販売する。たいてい2個で1kgになるが、時に空気が入ったりし
て軽い物ができると、3個の包装になることもある。


かれらが作るグラメラは、生産コストの出費がかぎりなくゼロに近い。ニラ採取はほとん
どの生産者が自力で行っている。梯子にする竹やニラの容器としての竹筒は森の中で適当
に取ってくればよい。ニラを煮詰めるための燃料も、森の中の枯れ木を集めるだけですむ。
成形のためのヤシ殻は廃物利用であり、製品を包むトウモロコシの皮やバナナ葉も自宅の
周囲で手に入る。強いて言うならニラを煮詰める大鍋だけが初期投資の対象になる程度だ
ろう。要するに売値はすべて利益だと言えないこともない。

ただ、2千年代に入ってから、太古から誰のものでもなかった森の中のアレンの木に所有
権を主張する者が出るようになった。レントシーキングは、人間がどのような経済原理を
奉じようとも、必ず出現する悪魔の論理のひとつではあるまいか。悪魔を外在物と決めつ
ける宗教があったように思うが、その人間観は偏っていないだろうか?ともあれ、ネゴが
借料を決めている人間的なありかたがこれまでのところはカバエナの民にとっての救いに
なっているようだ。


東南スラウェシ州南部地方でグラカバエナと呼ばれているカバエナ島産のグラメラは地元
ボンバナ県からブトンやムナの諸県一帯で良品としての定評を得ている。イドゥルフィト
リ、イドゥルアドハ、ラマダン、マウリッなどのイスラム祭日にはその需要が猛然と高ま
る。祝祭日にはワジッ、チュチュル、ドドルなどの伝統菓子類をどの家も用意して、祝賀
に訪れる来客に振舞うのが社会慣習になっているからだ。それらの菓子類を自宅の台所で
作るときにグラメラが不足すると困ったことになる。

インドネシア社会は物価が敏感に需給関係を反映する過敏症型社会だろう。需要の高まり
はそれだけで物価を上昇させる駆動力を持つ。需給関係の変動が生んだ品薄のために物価
上昇が起こると言うよりも、需要増という印象が物価上昇をひき起こすというはるかに単
純な仕組みになっているように感じられる。

その時期になると、パサルシケリやパサルドンガラではグラカバエナの価格が平常時の二
倍を超える。サ~ギアウィタ山麓の寒村で毎日20個ほどのグラメラを作っている村人に
とって、その時期の収入はたいへん大きなものになる。村内の自給経済の中でひっそりと
素朴な暮らしをしているかぎり、その金の使いみちを探すのに苦労するほどのものではな
いだろうか。だがそんな時期はたいてい数週間で終わり、また価格は盛況時の半分以下に
落ち込んでしまうのだ。


カバエナ島の沿岸部はたいてい漁村であり、漁民はグラアレンの生産にあまり縁がない。
しかしちょっと内陸部に入ると村民は農業で自給生活をしている。そんな農民たちにとっ
て、グラアレン作りは換金性労働としてたいへん重要な意味を持っている。だからどの家
でも同じようにグラアレン生産を行っているのである。[ 続く ]