「マンクヌゴロ軍団(1)」(2022年12月15日)

中部ジャワのスラカルタにあるマンクヌゴロ王家が軍隊の西洋化を行ったのは1808年
だった。第37代総督ヘルマン・ヴィレム・ダンデルスの統治下におけるできごとだ。そ
して全ヌサンタラでもっともモダンなプリブミの軍隊になり、植民地政庁が行う軍事行動
に加わってヌサンタラのあちこちで戦争した。

公称をLegiun Mangkunegaraとするマンクヌゴロ軍団の西洋化は、細かく言うならオラン
ダ化でなくてフランス化だったと言えるだろう。王家の軍隊の西洋化を希望したマンクヌ
ゴロ2世がその話をダンデルスに持ちかけたところ、ダンデルスは渡りに船とばかり乗っ
て来たらしい。

プリブミ側への軍事指導はオランダ人が行ったが、ヌサンタラにいるオランダ人たちはそ
のころ、ナポレオンのGrande Armeeを軍隊行動の標準に置いていた。ナポレオンの軍隊が
全ヨーロッパを総なめにして勝ち続けていたのだから、マンクヌゴロ2世にとって胸躍る
事態に立ち至ったことは疑いあるまい。


ナポレオンが常勝将軍であり当代の英雄であるというヨーロッパ事情はジャワ人の心をも
ときめかせた。その一代記はひとりの英雄の幸運と悲運を織り交ぜた人間の一生の記録で
あり、加えてヨーロッパというその時代の最先進地域で展開された歴史劇の一幕でもあっ
た。ジャワの王宮はヌサンタラの土を踏んだこともない英雄への賛辞としてナポレオン物
語Serat Napoleonとナポレオン史Babad Napoleyonをジャワ語で書いて蔵書にした。

残念ながらナポレオン1世にはジャワ島に設けられたフランス風のレジョンに対して外交
文書を送る余裕はなかったかもしれない。それでもクリスタルガラス製の魚の形をした美
しい飾り物をマンクヌゴロ2世のためにダンデルスに持たせた。それは今でもマンクヌゴ
ロ王宮の中に飾られている。

後になって、ナポレオン2世が顕彰状を贈り、3世もまた同じようにした。それらの国家
文書はマンクヌゴロ王宮の書庫に保存されている。


1795年にネーデルラント連邦共和国が崩壊した。革命フランス共和国に倣おうとする
勢力が興したバタヴィア共和国は、オランダ連合東インド会社を解散させてその債権債務
の一切を引き継いだ。VOCという会社がヌサンタラの各地に打ち立てた地場の土地と人
民に対する支配権が国家の手に移されたということだ。1800年1月1日にそれらの地
域はオランダ人の国家であるバタヴィア共和国のものになった。

革命下のフランス共和国がナポレオンによって帝政に代わったのが1804年、そしてフ
ランス帝国が皇帝の実弟ルイを国王に任じてバタヴィア共和国をオランダ王国に変えたの
が1806年で、1810年にはルイ・ボナパルトのオランダ王国も消滅してフランス帝
国に併合されたためにオランダ人の国家が地球上から姿を消した。そのときヌサンタラは
自動的にフランス帝国領になった。


ダンデルスの前任者アルベルトゥス・ヘンドリクス・ヴィ―セ第36代総督は1805年
にバタヴィア共和国が任命した人物であり、1808年1月にやってきたダンデルスにヌ
サンタラの統治責任を引き継いで帰国した。その交代劇は、フランスと戦争状態にあった
イギリスの戦略である全世界のオランダ領土の奪取に対抗するためにフランス皇帝が打っ
た対策だった。バタヴィア共和国設立に多大な貢献をしたダンデルスの軍事的才能と指導
力を見込んで行われた起用だったが、その後ヨーロッパの戦況が思わしくないためにせっ
かく派遣したダンデルスを皇帝はまた呼び戻してヨーロッパ戦線の一指揮官にしてしまっ
た。ダンデルスが後継者のヤン・ヴィレム・ヤンセンスに総督業務を引き継いでヌサンタ
ラを去ったのが1811年5月。[ 続く ]