「マンクヌゴロ軍団(2)」(2022年12月16日)

ダンデルスに交代したヤンセンスはダンデルスの部下としてそれまでジャワ島防衛体制の
構築にかれの手足となって動いていたようだ。ただしヤンセンスは悲運の司令官だった。

イギリスの侵攻から南アフリカのオランダ領土を守り切れずに降伏してイギリスに引き渡
した履歴を持っていた。ジャワ島もかれの指揮下にその二の舞を演じる破目に陥ってしま
ったということになる。いや、もしもダンデルスが続けていればジャワ島にイギリス占領
時代が来なかったなどと言う気はわたしに毛頭ないのだが、それにしても、インドネシア
語論説の中にそんな雰囲気を発散させているものが時折出現するのは、どういうことなの
だろうか。

ヌサンタラにあったVOCの軍隊は会社の解散と共に消滅し、国家の領土になったばかり
の土地にはまだ軍隊らしい軍隊が確立されていないという難しい時期に、ヨーロッパでの
戦争に忙しいフランス軍やフランス支配下の諸国の軍隊の派遣を期待するわけにもいかな
いという事情に焦点を当てて見るなら、インドから大軍を擁してやってくるイギリス東イ
ンド会社のジャワ島攻略軍の方に圧倒的な分があったという基本情勢は一目瞭然ではなか
ったろうか。

ダンデルスが作った東インド植民地防衛構想はイギリス軍による侵略に対する防御戦がそ
のベースを成していた。後の東インド植民地軍の発端となる軍隊構築の中にダンデルスは
プリブミの軍事力を大きく当て込んでいた印象が強い。上で述べたフランス海外領土とし
ての当時のジャワ島の状況がダンデルスにその方針を強いたのは明白だろうし、更にはV
OCが伝統的にその方式を使って軍事力を構築してきたのだから、結局のところは千古不
易の方法が踏襲されたと言えないこともない。VOCの軍事社員は基本的にヨーロッパ人
であり、かれらが指揮官になってプリブミ兵士の部隊を統率する形が東インド植民地軍に
引き継がれていった。


マンクヌゴロ王家はダンデルスの構想とその推進を足掛かりにして軍隊のモダン化をはか
り、ダンデルスはそれに手を貸すことで植民地防衛軍の手駒を増やすという互恵的なメリ
ットがそこに発生したように思われる。

マンクヌゴロ軍団の初陣は1811年に起こったミントー卿とトーマス・スタンフォード
・ラフルズを正副司令官に戴くイギリス東インド会社のジャワ島進攻軍との戦争だった。
その後も1825年から5年間続いたディポヌゴロ戦争、その後の植民地政庁が行った各
地への出兵や戦争に加わり、また19世紀末のアチェ戦争への参加、そして1942年の
日本軍襲来に際してもオランダ側と手を組んでジャワ島内での対日防衛戦に加担した。い
や、それ以前に日本海軍が行ったセレベス・ボルネオ・モルッカなどへの侵攻にも、連合
国防衛部隊と一緒になってマンクヌゴロ軍団が日本軍と砲火を交えている。特に東カリマ
ンタンのタラカン島攻防戦では激しい戦闘に従事した。

ジャワ島での対日戦では、ソロ市内に侵入してきた日本軍とスラムッリヤディ通り一帯で
銃撃戦が展開された。マドゥラ島・チラチャップ港・チアテル〜レンバン防衛線にもマン
クヌゴロ軍団が展開して日本軍のバンドンへの進軍に抵抗した。


マンクヌゴロ軍団発足時の軍容は、マンクヌゴロ2世が自ら司令官に就任し、小銃部隊が
歩兵fusilier8百人と突撃兵jagers1百人、騎兵部隊kavaleri2百人、砲兵部隊rijdende
50人の1,150人で構成されていた。軍団司令官にはオランダ国王ルイ・ボナパルト
の軍隊内におけるkolonelの階級が与えられた。

軍団の階級構造は司令官であるkolonelの下にmayor2名、letnan ajudan4名、kapitein
9名、letnan tua8名、letnan muda8名の士官、そして下士官はsersan32名、兵士集
団の最小単位を率いるkopralが62名いた。[ 続く ]