「マンクヌゴロ軍団(3)」(2022年12月19日)

マンクヌゴロ軍団発足時の司令官の名前としてパゲランアリオ・プラブ・プラン・ウェダ
ナというマンクヌゴロ2世の皇太子時代の公式名称を記したインドネシア語記事にしばし
ば出会うのだが、マンクヌゴロ2世は1796年から1835年まで在位したのだから、
かれが王の時代に軍団が作られて本人が司令官になったことは明らかで、どうしてわざわ
ざ皇太子時代の名前がそこに使われるのかその理由がわたしにはよく分からない。


マンクヌゴロ王家が軍隊の西洋化を行った裏事情にひょっとしたら関わっていたのではな
いかと推測される話がある。それはマンクヌゴロ1世が組織した王宮防衛軍が女性兵士の
部隊だったということだ。すべてが女性だったのか、それとも看板として作られたものだ
ったのかはよく分からないものの、resimen prajurit estriという公式名称だったのだか
ら、決して少人数ではない印象を受ける。指揮官も女性であり、王宮に賓客があるとこの
女性部隊が迎えの式典の主役になり、また客の目を楽しませるために余興の武芸や武張っ
た踊りを演じて見せた。

女性が王宮の防衛と警備を務める先例は1600年ごろにアチェのスルタンであるイスカ
ンダルムダが作っているし、アチェでは女性の水軍司令官とその麾下の女性軍団がマラッ
カやジョホールに出陣してポルトガル人と戦争を行っている。ジャワの女性軍団は王宮防
衛軍に限定されていたようだから、野戦に出ることはなかったのかもしれない。

1780年代にVOC総督の一行がマンクヌゴロ王宮を訪問したとき、女性王宮防衛部隊
は金糸で刺繍された男の服装で王を護衛しながらVOCロッジに賓客を迎えに出向いた。
賓客一行を王宮にご案内するのだ。賓客一行がロッジから出てくると、表に整列していた
女性部隊は空に向けて小銃で礼砲を三発発射し、騎乗して隊列を組むと王宮に向かって行
進した。騎馬隊の後ろにマンクヌゴロ1世と賓客たちの乗った馬車が従った。

王宮に到着するとかの女たちは奥に入って着替えをし、模様のない白色の衣装で客の前に
現れ、弓矢の腕前を披露した。場合によってはまた、たおやかな女性の姿を示す踊りを客
の前で踊った。だが踊りの挙措は戦闘動作や格闘技を織り交ぜたきびきびしたものであり、
なよなよとした女性美を満喫させるものではなかったそうだ。

賓客たちは口々に「すばらしい」「感動した」と女性兵士たちを賞賛した。他の王宮でこ
のようなものを見たことがないとコメントしたそうだから、マンクヌゴロ1世のアイデア
は大いに受けたようで、鼻が高かったにちがいあるまい。若いころに戦場暮らしをたっぷ
りと味わったマンクヌゴロ1世は、戦争のない暮らしに入って二十数年を経過してから、
女性王宮防衛部隊を使って昔の思い出をなぞることを趣味にするようになったという話だ。


1757年から1795年まで王位に就いたマンクヌゴロ1世は、若いころ起こったバタ
ヴィアの華人街騒乱とその余波が引き起こした王都カルタスラでの華人叛乱に際して、華
人側に味方してVOCとその傀儡になったカルタスラ王家に弓を引いた。カルタスラ王家
の一族であるかれには、王家の当主がVOCの下僕に甘んじていることが赦せなかったの
である。そのいざこざによって、最終的にかれはスラカルタに対して独立主権を持つ王国
を打ち立てることになった。ジャワの王家としての家格はトップがスラカルタのスナン家、
二位がヨグヤカルタのスルタン家、三番目がスラカルタのアディパティとしてのマンクヌ
ゴロ家という位置付けになったわけだが、これは本家分家という枠内でのランキングであ
り、分家が常に本家にペコペコしているわけでないことは時空を問わずユニバーサルな常
識になっているのではあるまいか。[ 続く ]