「マンクヌゴロ軍団(4)」(2022年12月20日)

ともあれ、1世のような趣味と無縁のマンクヌゴロ2世にとって、女性王宮防衛部隊を使
い続けるのは本意にそぐわないことだろう。かれにとっては王家の軍隊の改革が必然性を
帯びたものになって不思議はない。あるいはひょっとしてオランダ人のだれかが、女性戦
闘部隊を持つことが当時のヨーロッパ文明においては後進的であるという意見をマンクヌ
ゴロ2世の耳に入れた可能性にも思いが飛ぶ。

いずれにせよマンクヌゴロ2世にとっては王国軍の再編成が必至であり、ナポレオン軍を
背負ってジャワ島防衛体制の構築にやってきたダンデルスに片棒を担がせることは大いに
メリットがあったのではないかと推測されるのである。


フィジリエあるいは短縮形のフィジという言葉はナポレオン軍が使った軍事用語だった。
マンクヌゴロ軍団に所属するひとびとは自分たちのことを誇りを持ってレジョネールと呼
んだそうだ。もっと後の時代にフランス共和国軍の中に作られた外人部隊のカッコよさに
なぞらえたのか、あるいは小規模軍団が持つ精鋭のイメージを引き被ったのか。

公式名称はオランダ語のレヒウンに由来するインドネシア語発音レギウンになっているも
のの、やはりフランス語の味わいというのは一味も二味も違って聞こえるものなのかもし
れない。

正式軍装については、下士官と兵は頭につばの小さい円筒帽syakoをかぶり、丈の短い黒
色上着を着用した。士官はシャコ帽・黒色上衣・白ズボンを着用した。

ある資料にはマンクヌゴロ軍団が1881年から1896年まで採用した軍装の図解が掲
載されていて、王宮防衛部隊と野戦部隊は同一の服装になっている。士官は茶色のシャコ
帽子に金ボタン・肩章とモールを付けた詰襟の紺色上衣、紺色ズボンに長靴を履き、サー
ベルを吊っている。兵は白いシャコ帽に襟無しの紺色上衣、ズボンはひざ下までの丈で裸
足だ。騎兵だけ衣装が違い、帽子はトロピカルヘルメット、紺色上衣はボタンの位置に三
本の金糸横線刺繍が入っている。士官は紺色ズボンに長靴でサーベルを吊っている。


1811年8月にチリンチン海岸に上陸したイギリス東インド会社軍のジャワ島進攻は最
初から全軍が心臓部のバタヴィアを目指した。ヤンセンス司令官はメステルコルネリスに
防衛本部を置いてヴェルテフレーデンをほぼあけわたすようなかっこうにし、幾重もの防
衛線をメステルに向かう南往き街道に敷いてイギリス軍の進出に備えていた。

長い激戦の日々が続いたあと、ついに息切れのしてきたジャワ島防衛軍に劣勢の色が強ま
ったために、機を見るに敏なプリブミ兵士の脱走が増加するようになって防衛軍の衰勢が
著しくなり、結局メステルコルネリスは陥落した。

そのとき、メステルコルネリス防衛軍に加わっていたマンクヌゴロ軍団は落ち延びるヤン
センス司令官を守護しつつ中部ジャワに導いた。ヤンセンスは各地に集まっていた敗残兵
を集めてはイギリス軍の追撃に対抗していたが、スマランのジャティガレで最後の力を振
り絞って対決した戦闘にも敗れ、再び落ち延びる旅を続ける破目になる。

サラティガを経てソロ・ヨグヤカルタに向かおうとしていたヤンセンスはサラティガに近
いトゥンタン村で追撃してきたイギリス軍に捕捉され、ついに降伏勧告を受け入れてこの
戦争を終わらせた。

敗走に続く敗走を繰り返していた司令官に愛想を尽かせた軍幹部たちが司令官を見捨てて
去って行く中にあって、マンクヌゴロ軍団司令官は常に側近にいてヤンセンスの相談に乗
っていたそうだ。ヤンセンスが1811年9月18日にトゥンタンで降伏文書にサインす
るときも、かれはその場にいた。[ 続く ]