「マンクヌゴロ軍団(終)」(2022年12月21日) イギリスのジャワ統治が始まってから、ジャワ島防衛戦に敗れたマンクヌゴロ軍団に対し てラフルズは解散を命じた。ところが間もなくその命令は取り消されて、マンクヌゴロ軍 団は復活している。ヨーロッパを吹き荒れたナポレオンの嵐が収まってから、イギリスは 1816年にジャワ島を新生オランダ王国に返還した。そのときのマンクヌゴロ軍団は総 勢739人で構成されていたので、軍団の平常時基準が8百人と定められた。ディポヌゴ ロ戦争の時には動員がかけられて1千5百人の規模に膨れ上がったが、戦争が終わると1 千人態勢に戻された。 1853年から1881年まで王位に就いたマンクヌゴロ4世は王国のさまざまな分野に 大改革を行って国威発揚を進めた。まず筆頭に挙げられるのがチョロマドゥとタシッマド ゥの製糖工場建設による製糖産業への参入であり、それ以外にも農産物生産奨励とそのた めのインフラ建設として治水工事や道路建設などが行われた。それが王国の大改革の原資 をまかない、領民の生活レベル向上にも貢献した。 言うまでもなく、マンクヌゴロ軍団の改革もプログラムの中に予定されていた。まず行わ れたのは軍隊操典書の編纂で、これはスラカルタの教育官補として勤務するオランダ人フ レデリクス・ヴィルヘルムス・ヴィンターが1855年にSoldat Sekul(ソルジャースク ール)というタイトルの教本を作った。 軍団で使われる号令はジャワ語訛りのオランダ語が採用された。整列行進のときの並足前 進はpurwares mares(オランダ語voorwarts mars)、速足の場合はgeswindepas、あるいは 常足gewonepas(オランダ語もgezwinde pasとgewone pas)というようなものだ。 マンクヌゴロ王宮敷地内の表側にGedung Kavallerie-Artillerieと名付けられた大きい建 物がある。二階建ての主館を正面から見ると、二階に設けられたバルコニーのフェンスに はKAVALLERIE-ARTILLERIEという文字が大書され、その上の三角屋根のファサードには円 形の中に落成年度を示す1874が記されている。これはマンクヌゴロ4世が行った軍団 改革の際に建てられたものだ。主館の左右に一階建ての兵舎が連なって、そこが元来は兵 営であったことを示している。この建物がマンクヌゴロ軍団の司令部として使われたとい う話になっているものの、建物の名称とのつながりがよく分からない。 1875年にはヨーロッパから軍人を招いて指導官にした。歩兵大尉ひとり歩兵下士官4 人、騎兵少尉と騎兵下士官それぞれ1人だ。しかし1888年には資金難に陥ったために 4門の野砲を持つ50人の砲兵隊を廃止した。 1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦のとき、マンクヌゴロ軍団は総員2 千名を擁して臨戦態勢に入ったが、ジャワ島には何も起こらなかった。大戦終了後の19 22年には922人が軍団の平常時基準にされた。1935年にマンクヌゴロ7世が軍団 を一個半の歩兵大隊に編成しなおしたとき、一個大隊は6個中隊に細分され、機関銃隊も 新設された。また同時に軍団のスタッフ制度も始められて、兵站事務・軍医・軍楽隊など がスタッフとして軍団所属になった。 しかし日本軍のジャワ島占領がなされると、日本側はマンクヌゴロ軍団の解散を命じたた め、1942年にマンクヌゴロ軍団はその歴史を閉じた。インドネシア共和国独立のあと、 マンクヌゴロ軍団経験者の多くはインドネシア共和国軍に身を投じた。旧態復帰を図る戻 って来たオランダ植民地主義との共同軍事行動はもはや存在し得るものでなかったのであ る。[ 完 ]