「ボランバリン(後)」(2022年12月26日) スマラン市内ロンボッ小路の入り口にボランバリンの作り売りをしている老舗がある。2 004年11月のコンパス紙記事によれば、当年54歳で三人の子供と5人の孫を持つ、 寡婦のリム・メイインさんが父親の始めた家業を引き継いで営んでいるものだ。どうして この揚げパンにボランバリンという名前が付けられたのか、メイインはそれを知らない。 父親に尋ねたことがないので、分からないそうだ。しかし父親が始めた事業の発端は話を 聞いて知っている。 1930年、広東からスマランに移住してきた三人の仲間が中華揚げパンの共同事業を始 めた。その食べ物は大人の握りこぶし大で、形は四角だが中央が円形に膨らんでいてクッ ションや枕のような姿をしている。軽い食べ物なのに、食べると腹がいっぱいになる。小 麦粉を素材にした揚げ物の一種だ。それにボランバリンという名前が付けられた。 スマラン住民の間ですぐに人気が出て町のトピックになり、地元マスメディアの漫画にま で取り上げられて知名度を高めた。よく売れるようになったことから、三人の仲間はそれ ぞれが店を構えるようにして分離した。そうして時が経過し、三人のうちのふたりは没し たが、それぞれの一家の中に店を継ぐ者が出なかったので、老舗の店舗はまた一カ所だけ になった。それがリム・ウンキ―の店だ。 リム・ウンキ―と妻のタン・グウィニオは8人の子供を持った。メイインは6番目の子供 だ。ウンキーが没すると二番目の子供が後を継いだ。その子が没すると四番目の子供が後 を継いだ。四番目の子が没したとき、その子供(メイインの甥姪)たちの中に店を継ぐ者 がいなかった。このままでは父の始めた事業が消滅する。メイインがその事業を引き継ぐ ために立ち上がった。 だいぶ経ってから、子供がまだ小さい頃にメイインは夫を失った。寡婦になったメイイン は子供たちを育てるためにボランバリン商売に一層力を入れるようになった。一家が食べ ていくため、そして子供たちに妥当な教育を与えて独り立ちできるようにするためにボラ ンバリンの作り売りが生計の柱になったのだ。そして54歳の今、ボランバリンのおかげ でそれがやりおおせたとメイインは思っている。 今、メイインの店ではcakwe, untir-untir, kue tambangも販売されている。メイインが 午前中店番を勤め、昼から20時の閉店までは息子の嫁のイェニーとルシが店番を交代す る。販売されている四種類の商品はすべて小麦粉を素材にする揚げ物であり、形と味が違 っている。チャックウェは油条のことだ。二本の長い揚げパンがくっついている。クエタ ンバンは長い揚げパンが綱のように撚られた形になっていて塩味だ。ウンティルウンティ ルも長い揚げパンが綱のように撚られていて甘い。クエタンバンとウンティルウンティル はチャックウェよりもカリカリになっている。 価格はクエタンバンだけが1個2千5百ルピア、他のものは1個1千5百ルピアだ。一番 よく売れるのはボランバリンで、一日に2〜3百個売れる。休日はたいていもっと多い。 しかし三宝公の年祭りのようなたくさんの人出がある日には、ボランバリンだけで一日8 百個の売り上げに達することもある。 平常の日々にメイインは商品を作るために小麦粉を25キロ消費するが、三宝公の年祭り のような日になるとそれが75キロになる。揚げ油も普通の日々には三日間で10キロ使 っている。 この商売で粗利益は一日だいたい20万ルピアになる。年祭りのようなときで50万ルピ アだ。それをコツコツと貯めて一家の暮らしを立ててきた。 このボランバリンがスマラン名物のひとつになった。レンバン・ジャカルタ・バンドン・ ソロ・ヨグヤカルタ・スラバヤその他あちこちからスマランにやってきたひとたちの中に、 お土産にするためにメイインの店を訪れるひとも少なくない。スマランを発つ前、空港や 駅に向かう途中で店に立ち寄るのである。 「名前に何の重要さがあろうか。バラそのものが他の名前で呼ばれようとも、その美しさ に違いはない。」だって?ボランバリンという名前が消費者を引き寄せている事実を、わ れわれは目の当たりにしているではないか。 ただしボランバリンは日持ちがせいぜい2日程度。クエタンバンとウンティルウンティル はカリカリのおかげで2週間くらいはいける。だから実際にはクエタンバンとウンティル ウンティルの方が土産物としてはたくさん売れている。それでもボランバリンを一緒に買 わない客はほとんどいない。たとえ品物自体がどうであろうと、スマラン名物のユニーク な名前を持つ食べ物を持ち帰って証明して見せるのは意義深いことだ。その心理はきっと ユニバーサルなものなのだろう。[ 完 ]