「北の黄色い小人(7)」(2022年12月30日)

1942年2月に日本軍がシンガポールを陥落させて名前を昭南島に代えたとき、東イン
ド植民地軍は戦々恐々たる雰囲気に陥った。蘭領東インド北部は既に日本軍の侵攻を受け
て各地で続々と降伏が行われていたさ中であり、ジャワ島に王手をかけてくるのは時間の
問題とだれもが思っていた。

そのころ、スラバヤのウジュン海軍基地でロジスティクス部門の下働きをしていた18歳
のプリブミ青年は、オランダ軍艦が入港すると乗組員が頻繁に物資調達にやってくるので
自然と親しくなり、乗組員たちも強い不安の中にいることを肌に感じて知っていた。日本
軍に勝てるとは最初から思っていないような雰囲気に包まれていたそうだ。

2月末になってスラバヤから近いジャワ島北部海域で海戦が起こり、日本海軍の圧倒的強
さを地元民が目の当たりにすることになった。インドネシア人の目から見たこの海戦の詳
細は幣作「月明のジャワ海に没す」<http://indojoho.ciao.jp/koreg/libjawac.html>
をご参照ください。


続いて3月1日に日本陸軍が大挙してジャワ島に押し寄せ、バンテン海岸・エレタン・ク
ラガンの三カ所から上陸して攻略目標の諸都市に向かった。

東部ジャワのクラガンに上陸した部隊はババッの西隣にあるボウェモに向かい、上陸して
からほんの数日後に姿を現した。ボウェモには植民地軍が先にやってきて防衛線を作り、
日本軍を歓迎してはならないと地元民を脅かしていた。いざ日本軍先遣部隊がボウェモに
姿を現すと、守備隊との間でしばらく銃撃戦が行われたが、そのうちに守備隊はいなくな
った。そしてしばらくすると日本軍の歩兵大部隊が日中にそこを通過し、夕方になって大
量の戦車が隊列を組んで歩兵部隊の後を追って通過した。大量の戦車が轟音を立てて次々
に通過していく姿を住民は驚きの目で眺めた。東インド植民地軍のそんな姿を見たことが
なかったからだ。

植民地軍防衛部隊はスラバヤに後退するため、ブガワンソロにかかっている橋を次々に爆
破した。その日を境にして、ボウェモ周辺の村々では植民地軍兵士の姿を見ることがなく
なり、変わってボウェモを通る日本軍部隊のトラックコンボイばかりを目にするようにな
った。ときどきボウェモで停車するトラックがあると村の子供たちが大勢集まって来てト
ラックにたかり、日本軍兵士と交歓する様子が見られた。そんなエピソードが語られてい
る。

軍政が始まってから、多くの地方でプリブミの生活環境の中に日本人の姿が混じるように
なった。日本人のライフスタイルが目に見える日常がやってきたのである。最初プリブミ
の間で取りざたされたのが風呂敷だった。日本人は買い物に行くときに大きな布を持って
いき、買った品物をそれに包んで持ち帰る。プリブミが大きな布包みを持ってウロウロす
るのはルバランの時のカンプンに限られていたので、その違いが関心の的になり、中には
そのあまり颯爽としない姿を揶揄する者もいた。またそれとは別に、日本兵の歩く足音が
あまり軽やかでなく、靴を引きずるような音に聞こえたそうで、「靴に足をあわせろ」が
どうやら見破られていたのではあるまいか。


プリブミも日本陸軍の階級制度をすぐに覚えた。相手の階級に応じた対応をしなければ身
が危うい。軍服の左右の襟に縫い付けられている赤色の四角い布が階級章で、下っ端兵士
はそこに布の星型が1個から3個見られた。それが二等兵から上等兵までの三階級。その
上の兵長は赤色の四角い布に黄色い横線が一本入っただけ。

その上の下士官は赤色の四角い布に黄色い横線が一本入り、そこに白い金属製の星が1個
から3個まで縫い付けられていた。伍長・軍曹・曹長だ。下士官は軍刀を腰に吊ったが、
鞘が将校のように皮に包まれておらず、金属の鞘がむき出しになっていた。この下士官の
中の伍長と軍曹がプリブミにあれこれ仕掛けてきて、すぐにビンタをはる傾向が高かった
ために、プリブミはできるだけかれらを避けようとした。一方の伍長や軍曹たちは軟弱な
土人に活を入れて教育することを好んだ。そのころの日本人は一般に土着の原住民を土人
と称していた。[ 続く ]