「言語とリアリティ」(2022年12月30日)

ライター: オボル財団編集者、ヤンワルディ
ソース: 2015年9月19日付けコンパス紙 "Bahasa dan Realitas" 

所在なく、過去のコンパス紙をひっぱり出して眺めた。ある記事の中にmasuk keluar mal
という表現を見つけた。たいていkeluar masukという語順で使われているものであり、そ
の語順は少々尋常ではない。コンパス紙は多分、現実の姿に合わせた語順でその状況を描
きたかったのかもしれない。ひとはだれでも、まず先に入ってから出るのが実相だろう。

その語順を変えたコンパス紙編集者は意識してかしないでか、言語とは非随意的記号シス
テムのひとつであると主張する世界の言語学派のひとつを支持したのである。それを信奉
するひとびとは通常、ナチュラリストと呼ばれている。プラトーを筆頭に、ピアース、ヤ
コブソンなどがその陣営の著名人だ。それに対立するひとびとはコンベンショナリストと
呼ばれ、アリストテレス、ソシュール、チョムスキーなどを代表者にしている。


実際にインドネシア語において、非随意的で非アイコン的に見えるkeluar masukのような
構造はかなり頻繁に見受けられる。わたしが非随意的に見える構造と言っているのは、音
・語彙・句などの記号と、対象・記号が示すもの・実相などのような表象内容があたかも
時系列的関係を持っていないように見えるものを指している。keluar masukと同類の物の
中にはturun naik, pulang pergi, tua muda, datang pergiなどがある。

その反対に、インドネシア語を構成している要素の中に、リアリティの反映を示すものも
けっして稀でない。たとえばnganga, membuka, mengangkang, belah, bedahのような/a/
の音が開口部を示すもの、bola, bundar, bulat, boncel, buntelanのように/b/音が円周
形状を示すもの、あるいはramping, langsing, jingjit, tinggi, tipis, pipit, kecil, 
iritのように/i/が薄さ・高さ・小ささを示すものもある。複合語まで探せばきりがある
まい。

記号システムとしての言語がリアリティとの一致に向かうのは自然なことだ。たとえばイ
ンドネシア語のdetik, derak, detak, debum, dor, gongのような、リアリティに深く関
わる言語の記号性やアイコン性を示す、オノマトペに由来する音を模した言葉の形成が言
語のユニバーサルな特徴であるという意見で紀元前以来の哲学者たち(後世でかれらは言
語学者にされたのだが)は一致している。ところがどの言語でもオノマトペがそれほど多
いわけでないことから、コンベンショナリストは賛成しないのだ。


インドネシア語自体は透明性を豊富に持っていて、リアリティを明示的に示す語形式はた
くさん見られる。バンバン・カスワンティ・プルウォやハリムルティ・クリダラクサナが
それぞれの博士論文に採り上げたように、この問題の研究は昔からなされている。

オノマトペだけでなく、複合語の語順構成にも透明性を見ることができる。たとえば文化
面における透明性を示すsuami istri, pria wanita, tua muda, besar kecilなどだ。男
や年長者を先に置いて、男女や長幼における上下の価値観を示している。それどころかユ
ニークなことに、リアリティに即していないと見られて非論理的で歪んでいると思われて
いるkeluar masukやpulang pergiのようなものさえもが、異なる見地から見るなら論理的
な透明性を持っていることが分る。時系列的な関係をまず中にいる状況から見たらどうな
るだろうか。keluarが先に起こり、masukはその後になる。pulang pergiのアイコン性を
出かけている人間の心理から見たらどうなるか。人間は本能的に、まず家に帰るほうを望
むものだ。その場合、pulangが先に述べられることになる。

この短い論説から、記号システムとしてのインドネシア語がアイコン的で透明性を持ち、
非随意的で論理的であり、常にリアリティに対応しているという結論を導くことはできな
い。だからインドネシア語がプラトーたちナチュラリストの主張に合致する言語であると
いう表明もできないのだ。インドネシア語を幅広く調査し、大量なデータが包括的に研究
される日が待たれている。