「イ_ア国軍草創紀(1)」(2023年01月11日)

KNIL(オランダ王国オランダ東インド軍)には元々陸軍しかなかった。オランダ人を
メインにするヨーロッパ人指揮官に統率されたプリブミ兵士の軍隊はオランダ王国が領有
するヌサンタラの軍隊としてふさわしい構成になっていたと見てよいだろう。オランダ本
国の陸軍が海外領土で軍事行動を行うことは法律で禁止されていたため東インド政庁は自
前の陸軍を持つ必要があり、ヨーロッパ諸国から傭兵を募り、ヌサンタラではプリブミを
兵士に雇用して、KNILを設けた。ヨーロッパ人傭兵がすべて指揮官になったわけでも
なく、ただの兵士としてプリブミと一緒に行動したヨーロッパ人もたくさんいる。

その状況はVOC時代とたいした違いがなかった。VOCは軍務社員をヨーロッパの中で
雇用して軍隊を編成したが、兵力を充実させるために下級戦闘員としてアジア人を使った。
日本人がたくさん現地採用の傭兵として雇われたことはよく知られている。日本人の戦闘
能力が高いのに目を付けたクーン総督が日本人をもっとたくさん送って来いと平戸商館に
指示している手紙もある。

またヌサンタラの一部を征服して支配し、その地の住民を奴隷にした上、奴隷の戦闘部隊
を編成してVOC軍務社員の指揮下に付けることもした。VOCはネーデルラント連邦共
和国の各州にできたアジアのスパイス獲得と通商を行う会社の連合体であり、連邦共和国
の各州が持った軍隊とは別個の存在である。軍隊そのものでもなければ軍隊の中の一部で
もない。だからヌサンタラに駐在したVOC総督を軍人と考えてはいけない。かれらはア
ジアに置かれた会社の出先機関の総支配人なのであり、アジア一円の経営責任者だったの
だから。


KNILの空軍は1910年代に軍内で設立が決まり、米国から購入したアメリカ製のグ
レンマーティン水上機2機が1915年11月6日に到着してKNIL空軍が発足した。
その後も米国や英国の軍用機を購入して戦力を拡大していき、総数は389機に達した。
広大なヌサンタラの各地に飛行場を建設して基地を置いたものの、各基地の戦力は大編隊
を組めるようなものにならず、太平洋戦争の初期にすべてが日本軍の餌食になってヌサン
タラから姿を消した。

プリブミが空軍の戦力に加わる余地はなかった。というよりも航空兵や整備兵としての素
養の問題がメインだったのではないかと思われるのだが、基地の雑用や下働きに雇用され
るケースがほとんどだったようだ。だが中には航空機整備技術を得たプリブミがいなかっ
たわけでもない。


1945年に独立を宣言したインドネシア共和国は、発足の当初から軍隊を持った。日本
陸軍は1943年10月にプリブミだけの軍隊であるペタを発足させて日本軍を補助する
役割を与えていたが、敗戦によって1945年8月18日にペタを解散させた。すると独
立インドネシア共和国は即座に軍隊経験を持つ人材を集めて共和国軍を編成させた。ペタ
・兵補・KNILなどで軍事訓練を得た、共和国独立を支持するインドネシア人が集まり、
新国家の軍隊創設を行った。この共和国軍はBadan Keamanan Rakyat(国民保安団:ベー
カーエル)と名付けられ、1945年8月23日にスカルノ大統領がそれを公表した。国
民保安団には日本軍が育成したペタ・兵補・青年団・警防団、そしてオランダ東インド軍
やオランダ警察などで有能だったひとびとが参加した。司令官はチマヒのペタ大団長だっ
たアルジ・カルタウィナタが任命された。

ところが、旧態復帰をもくろんでヌサンタラに戻って来たオランダ人植民地主義勢力がイ
ンドネシア共和国を敵視し、武力によって共和国を潰滅しようとかかってきたから、共和
国政府は保安団を保安軍にする必要性を感じ、1945年10月5日に名称を団から軍に
変えてTentara Keamanan Rakyat(国民保安軍:テーカーエル)に変更した。

しかしやはりそんな名称ではモダンな戦力を有する軍事組織のイメージから遠かったのだ
ろう。1946年1月16日にTentara Republik Indonesia(インドネシア共和国軍:テ
ーエルイー)にまた名が変わった。[ 続く ]