「イ_ア国軍草創紀(2)」(2023年01月12日) この軍事組織の形態と内容そして将来へのロードマップを検討した政府は、各地でオラン ダの軍事攻勢に対抗して自然発生的にできあがった地方軍事組織を政府直属の軍隊の中に 組み込んで指揮系統を一本化させることを図り、国防省が統括する国家の軍隊という性格 をより強く打ち出して多数の地方軍事組織を糾合するための働きかけを1946年5月に 開始した。最終的に軍事組織における国民一体化が成就され、共和国政府軍と解釈されて いたTRIと多数の地方軍事組織が合同した。 1947年6月3日、スカルノ大統領はその官民合同の国家単一軍事組織に対する名称と してTentara Nasional Indonesia(インドネシア国軍:テーエヌイー)の名称を与えた。 それが今日まで続いているインドネシア共和国の軍隊の公式名称だ。Nasionalという言葉 にはそんな歴史的推移がからまっている。 このTNIの初代総司令官にスディルマン将軍が任命され、その幕僚としてウリップ・ス モハルジョ少将・ナシル海軍提督・スルヤダルマ空軍提督・ストモ中将・サキルマン中将 ・ジョコスヨノ中将が軍指導部を固めた。 そんな流れの中で、陸軍は長いKNILの歴史に加えてペタが予備コースを務めたおかげ で軍隊経験を持つ人材が豊富に得られ、また日本軍の武器兵器接収があちこちで成功した ために発足当初からそれなりの戦闘能力を持つ軍隊としての形が整い、共和国陸軍は独力 の運営による組織の基礎固めが比較的容易に進展した。しかし空軍と海軍はまったく事情 が違っていた。 空軍はオランダ時代の遺産がほとんどゼロであり、日本軍政期に日本軍航空隊で機体整備 などの下働きをしていた技術者と、KNIL空軍や日本軍と関係なしに個人的な経緯から 飛行訓練を得たパイロットたちが核となって共和国空軍を育成した。上流階層の中に航空 機の操縦能力を身に着けてオランダ本国の航空監督行政機関から飛行ライセンスを得たプ リブミもあった。しかしかれらは基本的にKNILの軍務とは無縁であり、それが日本軍 に代わっても同じだった。 インドネシア空軍最初の保有機は日本軍がインドネシアに持ってきた軍用機の残り物だっ た。インドネシアの航空史において、インドネシア人自身が自国の空をはじめて飛び回る のに使ったのは大日本帝国軍用機だったということだ。この話は拙作「帝国軍用機で始ま ったインドネシア空軍」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/htniau.html >をご参照 いただけます。 中でも日本敗戦時にインドネシアに大量に残されていたのが九三式中間練習機ヨコスカK 5Yで、マグウォ飛行場にあった50機をインドネシア共和国空軍が接収した。ヨコスカ とは日本海軍が持った最初の航空隊である横須賀海軍航空隊のことだ。そこには第一海軍 技術廠も置かれて軍用機の開発本部になった。 この九三式中間練習機を日本兵が呼びならわしていた名称「中連」がインドネシア空軍の 公式名称になった。当時の綴りでTjurengと書かれたそうだ。今はCurengという現代語綴 りになっている。この中連が日本からインドネシアに70機送られ、インドネシア空軍が 整備を行ったが飛行可能なものは20機しかできなかったという記事も見られる。 当時インドネシアで中連を蘇生できる能力を持った整備士はバンドンのアンディル基地所 属のバシル・スルヤとチャルマディのふたりだけだった。1945年10月25日にふた りはヨグヤカルタのマグウォ基地に招かれて整備作業を行ない、10月26日に1機が飛 べる状態になったので、27日にアグスティヌス・アディスチプトとルジトが操縦してジ ョグジャの空を飛んだ。それがインドネシア空軍にとって記念すべき初飛行だったのであ る。機体に描かれていた日の丸の下半分が白色に塗りなおされてインドネシア空軍を示す シンボルマークになった。[ 続く ]