「餅(3)」(2023年01月11日)

タングラン市内でクエクランジャンの生産販売を行っているヤップ・チュンテー氏によれ
ば、昔はどの家庭もクエクランジャンを自宅で作っていたそうだ。かつてCina Bentengと
呼ばれたタングラン在住華人はたいてい農業を営んだ。ベンテンという言葉はVOCの要
塞を指していて、元々VOCがそこに要塞を設けたことから華人が要塞周辺に集落を作る
ようになったのがその語の由来であり、タングランという町がその発端から中華文化の色
濃い土地だったことをその来歴が示している。

インドネシアでは陰暦正月が例年雨季の真っただ中にやってくる。だから華人プラナカン
もプリブミも、雨がないと新正Sinciaの雰囲気が出ないと言う。華人農民は新正の数カ月
前に穫り入れを済ませるからそのあとは時間の余裕がたっぷりとできて、そんな状況下に
各家庭が新正の祝の準備にとりかかる。家の中をきれいにしていろんな飾り物を吊ったり
置いたりし、祭壇を掃除し、新正のご馳走を手間暇かけて作る。料理作りは男も女も一家
総出で、台所で立ち働く。作られる料理の中にクエクランジャンが含まれている。

クエクランジャンはモチ米を砕いて粉にし、それをグラメラとココナツミルクと一緒にし
て長時間煮詰めるのだ。そしてたくさん作ったクエクランジャンは、自宅消費されるほか
に、親戚や知り合いに配られる。それが社会交際における慣習になっているから、どの家
のものはどうだという品評すら起こる。そんな副作用のために、恥ずかしくないもの、美
味しいものを作ろうという意欲や熱意が各家庭に生じるのである。


時代が移り変わり、誰もが大学まで昇れる時代がやってきて、農民の親も子供に学問を付
けさせるようになり、それが農業従事者の減少を招くことになった。タングランでも、ジ
ャワ島の土に生きる華人農民が急激に減少した。子供に学問を付けさせるだけの資金がな
かった極貧の華人農民だけが今でも残っているが、中流以上の農民は自営業あるいは商業
・サービス業などの被雇用者になって土と交わる暮らしから離れてしまった。

その結果、クエクランジャンは家庭で作るものから店で買うものに変化したのだ。198
0年代のはじめごろには、クエクランジャンを自宅で作る家庭の減少が強く感じられた、
とチュンテーは述べている。

子供のころから台所で、祖母の指揮のもとに行われるクエクランジャン作りに加わってす
べてを身体で覚えこんだチュンテーは、自分と同年代の者がクエクランジャン作りを知っ
ているはずなのに、クエクランジャンを買うものにして伝統文化を捨て去っている現象を
残念に思い、1984年にクエクランジャン生産者になった。

もちろんビジネスチャンスがそこにできたからだと言うこともできるが、それを事業にし
てやれば、この家業を継ぐ者があるかぎり、一家の伝統としてのクエクランジャン作りが
消滅してしまうことはない。家伝のクエクランジャンを商売物にしたいと言うかれの希望
に反対する兄弟姉妹はおらず、おまけにその時期、かれ自身が農業で食べていたから、1
ヘクタールの自分の田で毎回収穫時に3トンのモチ米が得られたので、かれの事業開始は
さほど問題なく進んだ。


クエクランジャンの製法がプリブミの食べ物であるdodolにそっくりであるためにクエク
ランジャンをドドルチナと呼ぶひともいる。またクエクランジャンがkue manisと呼ばれ
ることがあるのは、福建人が言う[舌+甘]ti[木+果]kweをインドネシア語に翻訳した結果
だろう。クエクランジャンの需要期は一年一回の陰暦正月だが、ジャカルタのブタウィ人
はドドルブタウィをルバラン必須のものとしている。クエクランジャン生産者がドドルブ
タウィを作れば、商売のシーズンは年二回になる。だからチュンテーのビジネスも年に二
回活発化する。

ファナティックなムスリムのブタウィ人もドドルチナをイドゥルフィトリの祝に食べるの
である。それがハラルなものとして作られていれば、何の問題もない。ブタウィの華人と
プリブミは陰暦正月とイスラムのルバランになると、互いに親戚や友人・隣人の家を訪問
し合っている。[ 続く ]