「イ_ア国軍草創紀(3)」(2023年01月13日)

この複葉単発機は第一次大戦中にイギリスが使って勇名を馳せたSopwith Camelを模した
ものだそうだ。日本海軍はその時期、イギリス海軍をお手本にして軍の構造改革を行った。
艦内の食事までもがイギリス海軍のメニューを参考にし、イギリス軍艦の厨房にインド人
調理人が多かったために普段から乗員はカレーを食べていたのに倣って、日本の軍艦でも
カレーがメニューにされたという話もある。

インドネシア空軍のパイロット養成はすぐに開始された。練習機がたくさん手に入ったの
は好都合だったにちがいあるまい。しかし中連の操縦も整備も、技術解説書など一切手に
入らなかった。そのために旧日本兵で独立インドネシアに好意を抱いた者たちがインドネ
シア人に指導を行ったそうだ。


太平洋戦争が終わって蘭領東インドを回復させるために戻って来たオランダ人は、NIC
A(オランダ東インド文民政府)を発足させて主要都市部での統治行政を復活させ、さら
に国家に反逆する無法者たちが興したインドネシア共和国を撲滅するためにKNILを再
編成してNICA軍を設けた。叛乱者を全国から一掃することを目的にしてNICA軍は
軍事行動を開始する。

オランダ側の論理がそんな形で構成されたのは、蘭領東インドがオランダの領土であるこ
とが前提になっている。その領土の主権、つまり統治権はオランダに帰属しているため、
インドネシア共和国と名乗る勢力は国内叛乱を起こした反逆者犯罪者たちと位置付けられ、
国体を維持するためにNICAは武力行動によって反逆勢力を一掃するというのがその骨
子にされたのである。

それは、独立を宣言したインドネシア共和国にとって受け入れることのできないロジック
だった。異民族による支配と統治から脱け出すのが独立ということなのである。インドネ
シアという国家の領土は本来的に原住民が主権を持っているのだ。土地の先住者が領土権
を持つことはヨーロッパ文明の中で常識になっているではないか。

既に宣言した独立を完璧なものにするためにインドネシア民族は支配者との戦争を行った。
それがインドネシアの独立戦争だった。世界で一般的な、独立を勝ち取るための戦争が独
立戦争であるという定義とは異なって、開始した独立国家を維持するための戦争がインド
ネシアの独立戦争だったということだ。独立宣言者で初代共和国大統領になったスカルノ
は、その闘争を独立戦争と呼ばずに独立革命と呼ぶのを好んだ。新生共和国にとってそれ
は単なる対オランダ戦争でなく、新しい国の姿を整えるための革命という意味の方が大き
かったからだろう。


「インドネシアはどこから独立したのか?」「日本からだ。」という問答が時折り見られ
るのだが、日本はヌサンタラを自国の領土に編入したのだろうか?日本の領土に編入され
たのであれば、朝鮮半島や台湾のようにその地の原住民が日本国民になるのが筋道である
ように思われる。そのような政治上の体制に変更がなされなかったのであれば、ヌサンタ
ラの土地はオランダ領のまま継続していたのであり、インドネシアでの日本軍政はオラン
ダ領土における占領体制下のものというのが妥当な見方ではあるまいか。

独立というのが領土の主権保持者の交代を意味しているのであれば、「どこから」という
言葉は旧の領土主権者を指すのが論理的であるような気がする。


NICAの旗のもとに旧態復帰に乗り出したオランダ人は、武力を振りかざして叛乱者に
臨んだ。わが民族の土地と水をわれらの手に取り戻そうと唱える建国の父たちの言葉に賛
同するプリブミ全般を、国家反逆者に同調する犯罪者の一味である、と見なすNICAの
保守的愛国軍人たちがヌサンタラのあちらこちらで大量虐殺を行った。

レイモン・ヴェスタリンRaymond Pierre Paul Westerling大尉が1945年から1949
年までの間にスラウェシのブルクンバ、ピンラン、ポレワリマンダル、パレパレで住民を
殺しつくした事件がその代表的なものだろう。インドネシア側は4万人の犠牲者を生んだ
と主張している。1947年12月9日に西ジャワ州カラワンのラワグデ村で起きた村民
431人の大量虐殺も似たような事件のひとつだ。[ 続く ]