「イ_ア国軍草創紀(4)」(2023年01月16日)

蘭領東インドの終戦処理のために編成されたイギリスインド軍を主力にするAFNEI
(蘭領東インド連合国軍)がインドネシアに進出して来て主要都市を占領下に置き、日本
軍の武装解除と日本への送還、捕虜収容所からの虜囚解放などを行った。そして1946
年11月に任務を終えてインドネシアから去ったのだが、NICAはAFNEI軍の中に
紛れ込んでヌサンタラに戻って来た。そして人容軍容を整えると、AFNEI軍の中に混
じって国家反逆者への攻勢と共和国支配地域奪取の動きを開始した。このあたりの詳細は
拙作「スラバヤの戦闘」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html >をご参
照いただけます。

しばらくしてオランダ東インドにとっての国家反逆者たちがただのならず者集団でなく、
たいへん重厚な人材の層がそこにあることに気付いたNICAは武力一辺倒の方針を変え、
インドネシア共和国を認めて将来のオランダの国益の一助にするべく懐柔案を組み立て始
めた。優れた政治家は目的達成のために硬軟両用を当たり前にするが、軍人の中には軟法
を受け入れられない者も混じっている。NICAの動きが欺瞞の色濃い悪辣さをインドネ
シア人の側に感じさせた事件がしばしば起こったのも、そんな要素の影響があったためか
もしれない。

NICAの側はこの戦争を一旦終結させて政治の舞台で優位に立とうとし、1946年1
1月10日に西ジャワ州チルボンに近いリンガルジャティ村で停戦と将来の国家体制の協
議を行い、協定が締結された。しかしその後の政治交渉がはかばかしく進展せず、諸事万
端を要求する側のNICAに共和国側は譲歩を続けたものの、最終的に決裂して武力闘争
の再発が避けられなくなった。

1947年7月21日、NICA軍は各地の共和国NICA協定境界線を突破して共和国
支配地域内への侵入を開始した。NICAは西ジャワ全域を完全制覇するために2個師団
を投入し、進攻軍に西ジャワから中部ジャワまでの制圧を命じた。東ジャワでは1個師団
が動いた。インドネシアの歴史書はこれをオランダ第一次軍事攻勢と称している。その当
時の最新鋭装備で固めたNICA軍の進軍を止める力は共和国軍になく、ゲリラ戦に頼っ
てNICA軍の動きを妨害するしか対抗策はなかった。

そのとき、インドネシア空軍が各地で接収し修理した日本軍の軍用機もNICA空軍機が
襲い掛かって、地上に置かれたまますべてが破壊された。ただ一カ所、ヨグヤのマグウォ
基地だけが霧に包まれていて、NICA空軍機の攻撃を免れたのである。


オランダ側はこの軍事攻勢の緒戦の戦果を大々的に世界に発表した。インドネシアに蟠踞
していた叛乱勢力はオランダ軍の攻勢に大打撃を受け、潰滅寸前になっている。

共和国側は窮地に立たされた。このままでは叛乱者の汚名のまま世界の歴史に名を残すだ
けになる。民族の悲願がこのように踏みにじられてよいはずがない。オランダの政治宣伝
に一矢を報いるために、インドネシア民族の不屈の闘志を世界に示す必要がある。そのた
めに、マグウォ基地の空軍に重い任務が託された。アンバラワ、サラティガ、スマランの
三カ所に空爆を行うのだ。

マグウォ基地に日本軍の爆撃機など一機もなかった。爆撃機や戦闘機は他の基地にあった
が、NICA空軍に破壊されて使えるものなどひとつも残っていない。マグウォ基地にあ
るものだけでその作戦を遂行しなければならないのだ。こうしてインドネシア空軍初の実
戦が1947年7月29日午前5時に開始されたのである。

滑走路の照明設備など一切ないマグウォ基地で爆音を轟かせた三機が次々に探照灯に照ら
された滑走路を走って行く。まずムリヨノが操縦するグンテイが浮上した。続いてスタル
ジョ・シギッのチューレン、最後がスハルノコ・ハルバニのチューレンだ。かれら三人は
1945年11月15日に開校した空軍飛行学校の生徒だった。各機には銃をかまえた助
手がひとり乗っている。ムリヨノはスマランに、シギッはサラティガに、ハルバニはアン
バラワに向かった。[ 続く ]