「イ_ア国軍草創紀(5)」(2023年01月17日) 予定通り爆弾を落とした三機は、NICA空軍戦闘機P−40キティホークの追撃を避け るために低空飛行を行ってマグウォ基地に午前6時20分に帰投した。その作戦は成功を 収め、帰投した三機はすぐに離れた場所に分散して隠された。NICA空軍の報復攻撃が なされるのは必至だったからだ。案の定、7時5分ごろになってNICAのキティホーク 2機がヨグヤ上空に飛来して銃撃を行ったが、人命の被害は出なかった。マグウォ基地も がらんどうで獲物は何ひとつなく、NICA機は獲物を探すために飛び去って行った。と ころがその日の夕方、たいへんなことが起こったのである。赤十字の任務を帯びて医薬品 を空輸してきた民間大型機がNICA空軍機に撃墜されたのだ。 その日夕刻、マグウォ基地目がけて飛んで来た非武装の民間機ダコタC−47が一機、着 陸しようとして高度を下げた。そのとき、NICAのキティホーク2機が銃撃を浴びせか けたのである。機体コードVT−CLAと機腹に大書されたダコタ機はマグウォ基地西に 隣接するゴト村に墜落して炎上した。操縦士オーストラリア人アレクサンダー・ノエル・ コンスタンティン、副操縦士イギリス人ロイ・ヘイゼルハースト、機関士インド人ビダ・ ラム、乗客の駐マラヤインドネシア共和国通商領事ザイナル・アリフィン、操縦士の妻ベ リル・コンスタンティン、インドネシア空軍副提督アディスチプト、同アブドゥラッマン ・サレ、空軍一等士官アディスマルモの8人が死亡し、唯ひとりヨグヤの民間ビジネスマ ンであるアブドウルガニ・ハンドコチョクロだけが生命を取り留めた。 このダコタ機のフライトは戦争中の双方に通告済みであり、了承がなされていたものだ。 スマランのカリバンテン基地から飛来した2機のキティホークパイロット、NICA空軍 少尉ルーシンクとエルケランス軍曹は、「ダコタ機は木と堤防にぶつかり、爆発炎上した」 とだけ目撃談を報告したような話がインドネシア語記事の中に見つかる。つまりそのふた りは報告したできごとの前に自分たちが何をしたのかを一言も言わなかったという印象が そこに生じる。 それが事実かどうかは別にして、その民間航空機墜落に関するNICAの発表内容はただ それだけだった。しかしVT−CLA機の墜落は決して自損事故だったのでなく、NIC A空軍機が非武装民間航空機に加えた故意の攻撃だったことをインドネシア側は確信して いた。機体の残骸とアディスチプトの遺体に弾痕があったことを少なくないインドネシア 人が目にしているのだ。 ノエル・コンスタンティンが操縦するダコタ機はインドのカリンガ航空所属のもので、そ の日同機はマニラからシンガポールに飛び、シンガポールのカラン空港でマラヤ赤十字が ヨグヤカルタに送る医薬品を積み込んでからヨグヤのマグウォ飛行場を目指した。このカ リンガ航空会社はスカルノ大統領の親友であるインド人ビジュ・パッナイクがオーナーの 会社だ。 1914年生まれのノエル・コンスタンティンはオーストラリア人だった。かれは193 6年にメルボルンで薬学を修得したあとロンドンに移って働き始めた。ヨーロッパが戦雲 急を告げるころになって、1938年にイギリスロイヤルエアフォースに入隊する。ナチ スドイツとの戦争が始まり、ドイツがヨーロッパを席捲してイギリス本国に王手をかける ようになったころ、かれはイギリスの国土防衛戦、いわゆるバトルオブブリテンにおける 主役の航空戦に従事し、大空のエースになった。 35人のオーストラリア人がRAF第141航空隊に入った。最初かれは戦闘機乗りだっ た。大空のエースとして名を輝かせたのはそのころだ。数年後に爆撃機の操縦士になり、 対独戦が峠を越えたころアジア戦線に移されて、ビルマ上空で戦闘機を駆っていた。第二 次大戦が終わってからは、インドのニューデリーで飛行機操縦の教官をしていた。最終位 階は中佐だった。そしてカリンガ航空で民間パイロットになり、南方アジアの空を飛び回 った。かれの妻ベリルはデンマーク王室の服飾デザイナーで、シンガポールで店を持つ計 画を携えて東南アジアに来ていたという話だ。[ 続く ]