「餅(6)」(2023年01月16日)

ジャワ島への華人の移住はVOC時代からあり、19世紀には更に活発になった。中部ジ
ャワの文明度が他地域にくらべて高かったためだろう、中部ジャワに住み着く華人は多か
った。ソロ・ジョグジャにもたくさん移住者がやってきた。王宮に出入りして高位の役職
に就いた華人もいる。かれらの知性はやはりジャワの宮廷でも一目置かれるものであった
ことがそこから分かる。


南洋に移住した華人はたいてい中国大陸南部地方のひとびとだった。かれらはまず船でシ
ンガポールに向かい、シンガポールにしばらく滞在してからジャワ島に向かう船に乗った。

ジャワ島に先に移住した親族に誘われたり、あるいは頼ったりして船に乗る行き先確定組
もあったし、シンガポールで得た情報や人脈を伝手にして船に乗るひとびともいた。シン
ガポールにもジャワの町々にも、同郷の人間を無料で宿泊させてくれる、先住華人が設け
た寮があり、その町に知り合いのいない福建人は福建人の寮に、客家人は客家人の寮に行
けば寝る場所には困らなかった。同郷人への助け合いの精神も強かったから、困ってにっ
ちもさっちも行かなくなっても、だれかが救援の手を差し伸べてくれた。

中部ジャワを目指した移住華人はたいていスマランに上陸する。行き先を決めないで来た
ひとびとも、スマランで情報や人脈を得て他の小さい町へ流れた。海岸沿いなら西向きに
クンダルやプカロガン、東向きはドゥマッ、クドゥス、ジュパラ、内陸に向かうならウガ
ラン、アンバラワ、サラティガ、マグラン、そしてソロやヨグヤカルタに達する。どこの
町にも、粗密の違いはあれ、プチナン(華人居住地区)ができた。

かれらがディエン高原に足を踏み入れないはずもなく、ウォノソボやパラカンにも華人は
住んだ。中でもパラカンは華人の住民人口が他をしのぎ、華人の町の印象をもたらすまで
に発展して、東のラスムと西のパラカンは中部ジャワにおける中華文化の双璧に置かれた。


20世紀のいつごろ移住して来たのかよく分からないが、新客華人クウィッ・スンクウォ
ッが1940年代に中国風肉餅の作り売りを始めた。豚肉やラードが使われた甘くない食
べ物だ。ところがプリブミがだれも買ってくれない理由を知ったかれは、豚を使うのをや
めて餡を緑豆粉で作るようにした。

その商売をクウィッはジョグジャ市内マントリジュロン郡スルヨウィジャヤン部落に借り
た店で行った。そこの地主がプリブミのニティ・グルニトだった。また肉餅を焼くための
炭は、かれと同じ新客華人であるリム・ボッシンから買った。

クウィッのアイデアはうまく当たり、緑豆粉のバッピアはジョグジャのプリブミ市民たち
によく売れた。その後、かれはもっと西の方に店を移して商売を続けた。クウィッに炭を
納入していたリム・ボッシンもバッピアの商売を始め、1948年には新レシピを加えて
バリエーションを増やした。リムはジョグジャ市内グドンテゲン郡パトゥッ部落KSトゥ
ブン通り75番地に本拠を置いた。後に、そこがヨグヤカルタのバッピア生産センターに
なる。


1960年代にクウィッは没し、息子の嫁のジュミケムが商売を継いだ。クウィッが亡く
なると、ニティ・グルニトもバッピアの作り売りを始めた。どうやらニティ・グルニトは
クウィッからレシピを教わっていたようだ。しかしニティはクウィッのバッピアと差別化
をはかり、サイズを小さくして皮を厚くし、餡の少ないものを売り出した。ニティは店を
構えず、ピクランで担いで売り歩いた。巡回販売の客はプリブミが多く、ジュミケムの店
に買いに来るのは華人が多かったそうだ。

リムはクウィッのバッピアに改良を加え、球形に近かったものを平たくし、皮をもっと薄
くして焦げ目を増やした。この改良形もたいそう好まれた。1980年代になって、リム
のバッピアが市場で有力になったので生産のための人手を増やしたところ、従業員が近隣
の住民に作り方を教えたため、75番地から近い近隣住民が同じものを作るようになった。
ジョグジャ名物バッピアは観光客によく売れたことから、リムは近隣住民の作るものも買
い上げて土産物屋に卸した。こうしてパトゥッ部落はバッピア部落の異名を取るようにな
ったのである。[ 続く ]