「餅(7)」(2023年01月17日)

ヨグヤカルタ市庁はバッピアを市の経済開発と観光促進に有益なものと見た。商工局は市
民にバッピアの製法をレッスンし、生産地区を育成してパトゥッ部落に並ぶ生産センター
を5カ所に設けた。新しく興った生産センターからさまざまな新製品のアイデアがあふれ
だしてきた。餡にチョコレートやチーズを使ったり、緑豆の餡にさまざまな味を添加する
ようになる。こうしてバッピアがヨグヤカルタの名物として定着したのである。

リムが興したバッピア部落では今や、個々の生産者が自分の家の番地を付けて自分のブラ
ンドにしている。リムは75番地だからパトゥッ75のブランドを付けている。そこでは
普段、125人の従業員が家内手工業方式で一日に6百箱を生産する。一箱20個入りだ。
しかし観光シーズンになるとアルバイトを雇って人手を増やし、一日1万箱を生産するま
でになっている。

パトゥッ部落25番地のタン・アリスニオ夫人はパトゥッ25のブランドで製品を市場に
流している。最初は試しに生産してみるつもりで従業員をひとりだけ雇い、自分の子供5
人に手伝わせて生産してみた。それが今では従業員60人を擁して一日1千箱を作ってい
る。しかし観光シーズンにはそれどころでなくなり、マグランやクブメンから50人ほど
臨時雇いを雇うことになる。


バリ島を訪れた観光客は島内のあちこちにPiaの看板が出ているのに気付くはずだ。ジョ
グジャのバッピアに対抗してバリ島土産に採り上げられたのがこのバリのピアだ。基本的
にバリのピアはジョグジャのバッピアと同じものであり、バッミで行われたようにバッと
いうナンセンス言葉を省いたものがバリでは最初から使われた。

その説明に従えば、理屈の上からバリのピアとジョグジャのバッピアは同じ物ということ
になるわけだが、個性が違っているのは当然の話だ。生産者はみんな自分のブランドを冠
した自社最高のものを製造販売しているのだから、そこに差別化が起こるのは当たり前の
ことだろう。

ジョグジャのバッピアはジョグジャ風の味と雰囲気、バリのピアはバリ風の味と雰囲気を
持っているはずではないだろうか。あるインドネシア語の紹介記事から拝借すると、バリ
島のピア生産者の有名どころはPia Tata Bali, Pia Eiji, Pia Bintang Baturiti, Pia 
Legongなどであるそうだ。


バリにはpiaと違ってpieという菓子もあり、たいていpie susuという名称で販売されてい
る。世間知らずのわたしは最初、ピアの生産者のひとりが他の生産者との差別化をはかっ
て訛った名称を付けただけのものだろうと思っていたのだが、調べてみて認識を新たにさ
せられた。

ピエというのは粉を練って皿状に焼いたものの中に甘いものや塩味のものを載せて供する
タルトの一種であり、ピエススにはクッキー式に焼いた皿の中に練乳・卵黄・コーンスタ
ーチで作ったカスタードが入っている。ピエはピアのような饅頭とは全然異なるものだっ
たのだ。また別に、英語読みしてそれをパイの一種と思う外国人観光客もいるらしいが、
パイとは縁もゆかりもない品だ。


バリ島でピエススという名前で売られているこの食べ物は香港から伝来したという話があ
る。これは元々イギリスのカスタードタルトが1940年代に香港で流行りはじめたこと
に端を発していて、50〜60年代に香港の茶餐庁Cha chaan tengで定番の食べ物として
取り扱われるようになった。

中国南部には太古から飲茶の風習があり、それに対抗して1950〜60年代に西洋料理
を飲茶のように軽く食べさせてくれる廉価レストラン茶餐庁が世に登場した。茶餐庁に行
く華人は飲西茶とそれを表現したそうだ。

もうひとつ別の説によれば、ポルトガル人の菓子pastel de nataがマカオから香港に流れ
着いていて、チャチャンテンが1950年代にそれを取り上げたのだ、ということも語ら
れている。

いずれにせよ、香港でもこの西洋由来の菓子はさまざまなバリエーションに発展し、チョ
コレート・ハチミツ・緑茶・ショウガなどのカスタードを載せたものがたいていのパン屋
や菓子屋で販売されているそうだ。[ 続く ]