「イ_ア人が空を飛ぶ(2)」(2023年01月31日) このグライダーは新生インドネシア空軍の飛行訓練にさっそく使われ、まだ卵でしかない パイロット候補生がこのグライダーの世話になった。適性の認められた優秀な候補生たち はインドに送られてパイロットの訓練を受けた。 NWG-1の生産が少数ながら開始された。その生産指導と継続開発はウィウェコが担当し、 ヌルタニオは本格的航空機作りのためにファーイースタンアエロテクニカル学院への留学 が命じられた。1948年、かれは留学のためフィリピンのマニラに移った。 その年、ウィウェコは1928年製ハーリー・デイヴィッソン750cc20馬力エンジンを 使って単座の軽飛行機を試作した。木製翼で胴はパイプ型の鋼鉄をキャラコ布で覆ったも のが使われた。5ヵ月間かけてできあがり、1948年中旬に空軍パイロットのスハンダ が操縦してテストフライトが行われ、マグタンの空をインドネシア人がはじめて作った動 力飛行機が飛んだのである。この試作機にはWEL-RI-Xという名称が付けられた。WELは Wiweko Experimental Lightplaneの頭文字だ。 1950年、共和国主権承認がなされたあと、ヌルタニオは留学を終えてインドネシアに 戻った。アンディル空軍基地技術メンテナンスデポ司令官の職務がかれの帰国を待ってい た。アンディル飛行場は今のバンドン国際空港だ。 そのとき、ウィウェコ・スポノは空軍准提督になっており、ヌルタニオ空軍少佐にその職 務を与える役に回った。ヌルタニオ少佐はマグタン時代にワークショップで一緒に飛行機 作りをした仲間たちを呼び集めて技術メンテナンスデポに実験課を作り、飛行機作りを始 めた。そこにNICA空軍で働いていた航空機整備技術者たちも集まって来た。 オランダ人が残して行った古い工作機械が集められ、第二次大戦前に使われていた旧式の 工作機械を使って、かれらは新時代の航空機作りに挑戦した。そして1954年8月1日 がその成果を証明する記念日になった。インドネシアで初めて、インドネシア人が作った 総金属製の動力飛行機が空を飛んだのである。イタリアのヴェスパスクーターのタイヤを 装備したこの単発小型機はSikumbangと名付けられた。 その成功に気を良くした開発チームはすぐに次の機種に取り掛かった。次に出来上がった のは木製単座単発小型機のKunag-kunangだ。機体長6.08メートル、総翼長7.6メー トルのこの作品はスポーツ飛行に格好の製品だった。この機を時速130キロで飛ばすた めに、フォルクスワーゲンのエンジンに手が加えられて機体に取り付けられた。 三番目の飛行機は1958年4月17日に生まれた。この飛行機にはコンチネンタル製の C90-12F型90馬力エンジンが使われ、時速144キロの速さで大空を駆けた。この機種 にはBelalangという名が与えられた。 それらの固定翼機ばかりか、かれはヘリコプターにも挑戦してKepikとManyang、おまけに 空飛ぶ椅子とあだ名されたジャイロコプターのKolentangをも世に送った。この時代の寵 児はインドネシア民族の目の前で、オランダ植民地主義者が民族精神の中に植え付けた劣 等民族の意識を粉々に打ち砕いて見せたのである。 航空機制作の前例をまったく持たないインドネシア社会の中で、物資のまったく不足して いたあの時代に、しかも旧式の素朴な加工機械類だけを使って次々に空飛ぶ機械を作り出 したヌルタニオはスーパーヒーローだったのだろうか。かれを知る多くのひとびとが語っ ているその人となりは、かれが完璧な現実主義者だったという話だ。 かれは現実を見極め、手に入るものを基盤に置いて知恵をその利用法に織り交ぜ、自分の 作ろうとしている物が持つべき必須の条件を満たしながらその物を完成させていった。目 に見えるものを絶対視し、そうでないものを当てにしなかった。かれを取り巻いていた状 況がそれを強いたとも言えるだろうが、状況に順応することこそ現実主義の基本だと言え ないだろうか? あるときナスティオン将軍がヌルタニオを評して「かれほどの現実主義者にわたしは会っ たことがない。」と語ったそうだ。[ 続く ]