「イ_ア人が空を飛ぶ(3)」(2023年02月01日)

ヌルタニオは航空機開発と制作の部門長として、人使いの穏やかな、対人関係の心遣いが
細やかな人物だったと工場長のムリヨノ少佐は語っている。頭ごなしの命令をして部下に
無理強いすることを好まず、何かをさせねばならないときでさえ、相談の形でアプローチ
するのが常だった。自分だけで結論を出し、それを部下に命じるのでなく、自分の抱えて
いる問題を部下の前に投げ出して部下が参加するべき問題にし、部下が納得した上で協力
する気を起こさせる絶妙の方法でもあった。ムリヨノ少佐は上司のリーダーシップを高く
評価している。


1960年にヌルタニオの指揮する航空機開発制作ワークショップが格上げされた。いつ
までもワークショップのままにするのでなく、国の産業として航空産業の育成をリードす
る国家機関にするべきだという提案を国家航空評議会が政府に申し入れたのだ。ヌルタニ
オはその新たな責務を受けて、自分の部門を航空産業準備機関と命名した。外部関係者は
そこに「準備」という言葉が入っているのを見て、ヌルタニオらしいと評した。「ここで
どんどん飛行機を作り、世界中に売りまくるぞ」という気負いの感じられない、現実主義
者らしい命名だったということだろう。現実は、そんなことは一朝一夕にできるものでは
ない、と物語っているのだから。

しかしヌルタニオは韜晦的な人間ではなかった。歳月をかけて準備を進め、準備を完了さ
せてその言葉を外すのだという気負いはもちろん、かれの心中で燃えていた。いつの日か、
大きい製造工場を作ってインドネシア製航空機を量産するのだ。かれはそれを念願してい
た。

その初期ステップとして、アディスチプト空軍基地管下のチュルッ空軍飛行学校で使うた
めの練習用小型機をすべてインドネシア製のものにする。この計画はスムースに進展し、
5機のブラランが飛行学校に納入された。


かれは小型機の生産と改良、そして国内販売に注力した。大型の輸送機や旅客機を作れな
いわけではないが、作って誰に売るのか?その市場は全世界の大手メーカーに占領されて
いて、やすやすとそこに参入できるものではない。

小型機は国内の農業やスポーツあるいは移動のための需要がある。そのマーケティングの
ためには国民の間で知名度を高めなければならない。かれはクロスカントリー航空ショー
を提案した。

バンドンのフセイン・サストラヌガラ基地からチブルム〜プルウォクルト〜ヨグヤカルタ
〜ソロ〜モロクルンバガン(スラバヤ)〜スマランと巡り、そのあとはプングン〜チルボ
ンを経てバンドンに帰還する。1962年6月11日、クナンクナン1機、ブララン2機、
パイパートライペーサー1機、Mi-4ヘリコプター1機の編隊がバンドンから飛び立ってチ
ブルムに向かった。クナンクナンを操縦するのはヌルタニオ、ブラランはそれぞれをウィ
ウェコ・スポノとスリプト・スゴンドが駆る。ヘリは緊急時のレスキュー用だ。技師整備
員チームは数日前に陸路を会場に向けて出発させてあった。

各地でのショーは好評のうちに幕を閉じた。たいしたトラブルはひとつも起こらず、国産
飛行機を見に来た地元民たちの感嘆のため息に包まれて、国産機初のショーは大きい成功
を収めたと評価された。


航空産業準備機関が発足してから、生産活動を活発化させるためには外国で生産販売され
ている航空機を製造して国内市場向けに販売するのがよいとかれは考えた。外国の航空機
メーカーにその製品ラインナップのひとつをわが社で作らせ、インドネシア市場をその製
品に提供しようというわけだ。[ 続く ]