「イ_ア人が空を飛ぶ(4)」(2023年02月02日) 必然的に、設計から製造工程、生産管理などの指導が行われて技術移転が起こる。製造部 門が育つための大きな栄養にそれがなるはずだ。インドネシア市場に最適な機種を探すこ とをかれは始めた。インドネシアにどんな用途があり、それをもっとも効率的且つ経済的 に満たすのはどのような機種なのかということを一番よく理解している男がこのプロジェ クトを始めたのだ。 インドネシア空軍で使われることは言わずもがなであり、スポーツフライト、救急のため の諸輸送活動、へき地への現金輸送、あるいは農業活動における散布作業。かれは折に触 れて部下にこう語っていた。「われわれが作る飛行機は農民が容易に散布作業を行なえる ようなものにし、農民の若者が容易に飛ばせられるような簡便なものにしなければならな い。」 1960年はじめごろ、ヌルタニオは単身で欧米諸国への旅に出た。しかし西ヨーロッパ 諸国の中で、かれの話に乗って来る航空機メーカーはひとつもなかった。かれは見方を変 えた。東ヨーロッパを探してみよう。そしてインドネシア市場にうってつけの機種がポー ランドで見つかった。PZL-104 Wilga-32がそれだ。ライセンス生産の話も円滑に進み、お まけにポーランド政府から150万米ドルのソフトローンまで入手することができた。 インドネシアでの生産開始の準備として8人の工学士がポーランドに送られて3カ月の研 修を受けた。その8人が戻って来たときにかれらから指導を受ける作業員の募集も始めら れた。製造技術や生産管理ばかりでなく、工場を管理しマネージメントを行う管理職の予 備軍まで社員募集の扉が開かれ、航空産業準備機関は突然巨大工場に変貌したのである。 ウィルガの生産が1963年に開始されたとき、集められた工学と技術分野の人材は5百 人を超えていた。当時のインドネシアにとって、それは目覚ましい国家プロジェクトだっ たと言えるだろう。 ポーランドで作られているウィルガの使っていたロシア製エンジンが米国製エンジンに変 更されることは生産開始前に合意された。回転毎分のより大きい米国製エンジンを使うと プロペラを小さくできる。プロペラが小さくなれば車輪と翼の燃料タンクを低くできる。 それを行ってみたところ、最初のデザインが持っていた威圧的でいかつい印象がたいへん やわらいだ。 ポーランド側はさっそくこのアイデアを使って製品のデザインを変え、中東市場に売りま くった。後になってインドネシアの航空関係者がそれを知り、立腹してヌルタニオに苦情 したが、特許権のことまで何も思い浮かばずに製品のことばかり考えていたヌルタニオは しまったと思ったものの、今さらどうしようもない現実に対して肩をそびやかす以外にで きることは何もなかった。 このウィルガのインドネシアバージョンにスカルノ大統領はGelatikという名称を与えた。 だからポーランドのウィルガにそっくりの軽飛行機がインドネシアでグラティッという名 前で作られていることに不審を抱く必要はない。それまで羽虫ばかりだったヌルタニオの 飛行機がこれでやっと鳥になったのである。 あるときヌルタニオは、廃棄されたチェコスロヴァキア製スーパーアエロをクマヨラン空 港で見つけた。ほとんど残骸のありさまだった。それを工房に移させ、みずからその復旧 作業を開始した。分解して使えない部品や傷んだ部分を交換し、機体は徐々に往年の姿を 取り戻していった。しかしそのスーパーアエロで何をするつもりなのかをかれは一言も語 らなかった。不審に耐えられなくなった部下が尋ねると、かれは「誰にも言うなよ」と前 置きして言った。こいつにArev (Api Revolusi)という名前をつけて、ブディアルト・イ スカッと世界一周しようと思っている。[ 続く ]