「イ_ア人が空を飛ぶ(5)」(2023年02月03日)

復元作業が終わると試験飛行をし、またどこかをいじくって改良する。そんなことが何度
か続けられた。そして運命の日が1966年3月21日にやってきた。その日もまた、ヌ
ルタニオが自ら試験飛行を行うのだ。エンジンが始動し、機体は滑走路を走り始める。離
陸し、上昇態勢に入ってからほどなく、エンジンが停止した。かれはトゥガルガの競馬場
跡地に機首を向けた。そこに着陸しようという算段だ。ところが運命はかれにそれを許さ
なかった。機体が火を発して、スーパーアエロはまっさかさまに地上に落下した。そのと
き、インドネシア航空産業の礎を築いた男の生涯が幕を閉じた。


航空産業準備機関はその年、故人をしのんでヌルタニオ航空産業機関に改名された。その
十年後にこの政府の機関は国策の株式会社に変更されたが、ヌルタニオの名は維持された。
ヌルタニオ航空機産業株式会社がそれであり、1984年に社名がヌサンタラ航空機産業
株式会社に変更されるまで、ヌルタニオの名は航空機産業と共に歩み続けたのである。

ヌサンタラ航空機産業株式会社は2000年にディルガンタラヌサンタラ株式会社と社名
が変わって今日に至っている。


ヌルタニオ航空産業株式会社が作られたとき、その社長の座に着いたのが後にインドネシ
ア共和国第3代大統領になったBJハビビだ。ハビビはドイツで、航空産業畑の中で育っ
た人間だった。

1960年から5年間、レーニッシュ・ヴェストファーレン工業高等学校軽量化科の主事
と調査助手を務め、1965年にハンブルグ航空機製造株式会社のスペシャルサイエンテ
ィストになり、1966年に同社の構造分析開発調査部門長に抜擢された。

1968年にボルコウ株式会社と合併したメッサーシュミット社が1969年にハンブル
グ航空機製造株式会社を吸収してメッサーシュミットボルコウブローム株式会社(MBB)
ができあがった。1969年からハビビはMBBで商業軍事輸送機技術開発部長を務めた。

そして1973年、祖国インドネシアのスハルト大統領の要請に従って帰国し、技術応用
研究庁長官として技術立国を目指す祖国を指導するべく活動を開始したのである。197
4年から1978年までかれはMBBの技術調査局バイスプレジデントの座を兼務してい
る。

1976年にかれはヌルタニオ航空機産業株式会社社長に就任し、1978年には技術調
査担当国務大臣の職に就いた。それらの他にも、帰国してからのかれは実に様々な国家機
関の責任者を務めている。オルバレジーム下にインドネシアが達成した科学技術のレベル
向上は、ハビビなくしては中身の曖昧なものになっていた可能性をわれわれは感じるので
ある。

ヌルタニオ航空機産業株式会社と後のヌサンタラ航空機産業株式会社が行ったさまざまな
成果もハビビの手腕に負うところが大きい。欧米の大手航空機メーカーの機種を選択的に
ライセンス生産することは元より、自社独自の開発と設計を駆使してインドネシア人が作
り出した航空機を世に送り出す先人の念願を実現させることにかれは全霊を捧げた。それ
がかれ自身の念願でもあったことは疑いあるまい。

N-250に始まる一連のオリジナル仕様航空機の生産がハビビによって展開されて行ったの
である。ハビビが敷いた礎石の上で、ディルガンタラインドネシアは航空機と部品の生産
を続けた。2016年には輸出ドライブがかかり、その年CN-235が35機、ベネゼラ・セ
ネガル・ブルキナファソ・アラブ首長国連邦・パキスタン・トルコ・マレーシア・韓国・
タイ・ブルネイの10カ国に輸出されている。最近ではネパールのあと、再びセネガルに
CN-235最新バージョンの220MPAが2021年に輸出された。[ 続く ]