「餅(19)」(2023年02月03日)

このインドネシア名の社会的強要はもちろん政府が煽ったものであり、法規で命じられた
と言う理解が世間一般に流布したものの、法規にそんな文言は何ひとつ書かれておらず、
インドネシア名を使うよう奨励するという表現になっていた。その実情を正しく把握して
自分のアイデンティティを保とうとした華人系のひとびとはインドネシア名を持とうとし
なかったし、そんなひとびとに対する行政からのおとがめも発生していない。ただしそれ
は相手次第になる話であり、ただの市井の一庶民は突っ張ろうとしても社会圧と行政圧に
よってつぶされてしまったことだろう。それなりの社会的地位や履歴が認められているオ
ン・ホッカムのようなひとびとだけがその荒波を乗り越えたのではあるまいか。

一方、政府が勧めることを協調的に実践してインドネシアに溶け込もうとする大物華人プ
ラナカンも少なくなかった。ウイ一族が姓をWijayaにし、タン一族が姓をTanuの付く言葉
にしたり、リム一族がHalimやSalimを名乗り、チャン一族はChandraに変えるようなこと
が行われた。


一方、スマランで名を揚げたウィンコババッの歴史はどうなっていたのか?ルー・スーシ
アンの娘、ルー・ランホアはババッでテー・エッチョンと結婚した。夫はババッで働いて
いたが、1944年に暴動が起こったためにその夫婦は子供ふたりを連れてスマランにあ
るエッチョンの実家に引っ越した。

夫はスマランのタワン鉄道駅で、スマランとスラバヤを往復する列車のメンテナンス・修
理工房に職を得た。しかしその給料だけでは食べていくことができない。そのとき32歳
だった妻のランホアにアイデアが浮かんだ。ウィンコを作って駅で売ったらどうかしら?
もちろんランホアは子供のころから両親を手伝ってウィンコを作っていたから、作り方は
身体で覚えている。こうして1946年から、ランホアが作るウィンコがスマラン駅で売
られるようになった。


夫が商品を駅の売店に持って行って委託販売する。スマラン駅で汽車を乗り継いだり乗降
する乗客にウィンコはよく売れた。なにしろスマラン駅のほうが、街道が交差するババッ
の町よりもはるかに人通りが多いのだから、ウィンコがスマランの名物になって当然だ。
しかも長距離を移動するひとが少なくないのだから、スマランの特産物としてスラバヤや
ジャカルタに紹介されるようになったのも自然の成り行きだろう。

最初、ランホアのウィンコは包装紙がただの白紙になっていた。駅売店の売り子が言うに
は、この菓子の名前を尋ねる人が多い。ランホアは白紙の包装紙をやめて印刷したものに
替えようと考えた。品物の名称はWingko Babatにする。でもそれだけじゃあ物足りない。

デザインを考えていたある日、タワン駅の食堂に仕事場を移していた夫のエッチョンがア
ンケート用紙の綴りを持ち帰って来た。駅の利用者に、サービスに関する意見を書いても
らうための用紙だ。綴りの表紙に機関車のイラストが描かれていた。ランホアはその絵に
心ひかれた。デザインが楽しいだけでなく、汽車に乗ってジャワ島を駆け巡るウィンコバ
バッをそれで象徴させることができる。

機関車印のウィンコババッが汽車に乗って全国に散らばりはじめると、似たような物が巷
に出現するようになった。ランホアのウィンコに元祖の表示をしなければならない。ラン
ホアは夫の名前をそこに付けることにした。しかし華人名ははばかられたから、夫のイン
ドネシア名D. Mulyonoを付け、さらにウィンコババッの創始者である父親の名前をd/h Loe 
Soe Siangと書いて添えた。

d/hとはdahuluの省略形で、たとえばB銀行(前A銀行)というような場合にBank B d.h 
Bank Aという書き方をする。正しい表記法はd.hであり、d/hは逸脱用法になる。ランホア
が書いたd/h Loe Soe Siangは元祖名を意図したように思われる。つまりD. Mulyonoは元
祖の直流であるという表明だろう。

ランホアのスマラン産ウィンコババッは今でもスマラン名物のひとつとして定着しており、
店はタワン駅から近い場所にある。事業は既に長女のテー・ギョックウィさんに引き継が
れている。[ 続く ]