「陸軍点描(1)」(2023年02月07日) インドネシア国軍の陸軍には戦車部隊がある。戦車が世に誕生する前の時代では騎兵が歩 兵と呼応して戦争していたものが、戦車が出現してからは騎兵が徐々に駆逐されて戦車部 隊に入れ替わっていった。だからほとんどの国が戦車部隊のことを、昔の騎兵を意味する キャヴァルリ系統の言葉で呼び続けている。インドネシアもそれに倣ってkavaleriを戦車 部隊の呼称にしているが、インドネシア陸軍はいまでも騎馬部隊を擁しているので、戦車 に乗る兵隊も馬に乗る兵隊もカヴァルリと呼ばれている。 東南アジアでそんなことをしているのはインドネシアくらいであり、他の諸国の軍隊には もう騎馬部隊がいなくなっているそうだ。インドネシア国軍陸軍騎兵カヴァルリ支隊指揮 官はコンパス紙記者にそう語っている。 インドネシア国軍陸軍部内に公式にカヴァルリが誕生したのは1950年2月9日だった。 インドネシア共和国主権承認がなされて間もない時期だ。それまで共和国を名乗る武装叛 乱者を叩き潰そうとしていたNICAから戦車を寄贈され、国軍カヴァルリが公式に誕生 したのである。車両メンテナンスから操作に至るまで、NICA軍人がさまざまな手ほど きをした。 ならばそれまで、インドネシア国軍は馬も戦車も持っていなかったのか。そんなことはな い。組織としての部隊が存在しなかっただけの話なのである。古来からヌサンタラ各地の 王国には騎馬兵団がいて、戦争のたびに弓部隊・槍部隊などと呼応しながら騎馬兵団が敵 陣地の中に突入して暴れまくり、後を追って歩兵がなだれこんでくるという戦術は当たり 前のものになっていた。 独立宣言以後の対NICA戦では、圧倒的なオランダ側兵器との性能差が共和国軍側にゲ リラ戦を強いたために、そのような会戦は見られなかったようだ。しかし騎馬軍団がなく とも、馬を使って機動性を高めることを軍隊がしないはずはあるまい。 独立宣言直後にやってきたAFNEI軍との戦闘では何度か大規模な会戦が行われており、 そこに騎馬軍団は登場しなかったにせよ、インドネシア側は日本軍が持ち去らせた大砲・ 迫撃砲・高射砲・戦車などを使って戦争した。共和国陸軍はその発端から戦車を持ったと いうことが言えるだろう。更にはAFNEI軍との戦争、NICA軍との戦闘などで敵か ら奪った戦車が適宜使われていたのだから、独立宣言直後のプリブミ戦闘集団をあまりに も貧困のイメージで眺めるのは間違いのもとになるかもしれない。。 1945〜46年の状況は拙著「スラバヤの戦闘」をご参照ください。 《 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html 》 インドネシア国軍戦車部隊は最初、イギリス製Humber 1 Scoutと米国製Stuart M3A1を主 力車種にした。それらの軽戦車はバンドン・パレンバン・メダン・マグランに置かれ、南 マルク共和国、ダルルイスラム/インドネシアイスラム軍、プルメスタなどの国内叛乱鎮 圧のために出動した。他にもオランダ王国軍から中古のAMX13を購入したり、イギリスか らScorpionやStormerを買っている。 1960年代に英国アルヴィス社製FV601サラディンMk2が購入されて戦車部隊の主力マシ ーンになった。6対のタイヤを履いて76ミリ砲を主砲にするサラディンは、たくさんの 島に別れ、しかも島内が多くの川で分断されているインドネシアの地形にふさわしいもの として選択されたようだ。そのサラディンという名称は12世紀の十字軍戦争でヨーロッ パ勢の強敵になったアユビ王朝の開祖ソラフディン・アルアユビを指している。クルド族 の出自であり、マムルーク騎馬兵団を率いて戦場を疾駆し、ヨーロッパ勢を大いに苦しめ たイスラムの英雄のひとりだった。 サラディンの兄弟車種がFV603サラセンで、こちらは兵員輸送機能をメインにしていて、 車体後部が平らになっている。このサラセンが幅広くインドネシア国民大衆の目に触れた のは、G30S事件で殺されてルバンブアヤで発見された将軍たちの遺体の葬儀パレード が行われた際に、遺体の入った棺を積んでカリバタ墓地に向かう姿だった。[ 続く ]