「陸軍点描(3)」(2023年02月09日)

しかしインドネシア国防省は重戦車が人間の心理に与える影響に焦点を当てたように思わ
れる。専門家が作っている軍事力評価などというものはしょせん机上の計算でしかなく、
評価の高い軍隊が百戦百勝する保証がそこから得られるとは思えない。兵力兵器の多寡と
性能は静的なものでしかない。それを扱って最大の効果を出させるのは人間なのである。

兵隊が個々に、あるいは兵器が自分で動いて戦争するのではないのだ。用兵と武器兵器の
操作能力、戦略と戦術の立案と巧みな指揮によるその実現によって、単なる数値が最高の
パワーを発揮するようになるのではないか。人間の能力が静的な数値を動かして軍事力を
具体化させるプロセスがそこに存在しているのであり、それが軍事力のぶつかり合いに最
終判定を下すというのが古来からの真理ではなかったろうか。


おまけに戦争の力の対決部分は軍隊が担うものの、戦争の勝敗は政治が決めるのであって、
完膚なきまで叩き潰されて無条件降伏し、敵にすべてを差し出すような戦争の例はむしろ
少ないはずだ。軍事対決の優劣がある程度読めたときに、どの国もそれぞれ深手を負わな
いようにして終戦交渉を始めるのが世界史における戦争の通例ではなかったろうか。

戦争はあくまでも人間が口火を切り、そして人間が終わらせるものだ。戦争を望む人間に
その口火を切らせることをためらわせる要因として機能するものがあるなら、これほど戦
略的要素に満ちているものはあるまい。インドネシアに軍事攻勢をかけようとする人間の
心理に重戦車が水をかけることができるなら、これほど戦略的な兵器はないだろうという
のが国防省の考えだったのであれば、われわれにもうなずける余地は出てくる。そうであ
るなら、あとはそれに費やされる国費の大きさに関するバランス感覚に問題が移って行っ
てしかるべきだろう。戦争抑止を左右する戦略兵器に充てる金額の問題が次に起こるべき
議論ではないだろうか。重戦車が戦略面で持つ効果の値段はいくらだったのだろうか?

しかし別の軍事評論家は異なる視点からこの問題を指摘した。インドネシアの外交戦略と
して重戦車を持つことは必要であるとかれは自著に書いている。インドネシア国軍は昔か
らたびたび国連からの要請に従って、国連軍として紛争国への派兵に応じてきた。派兵先
国で重戦車の存在を示すことは、国際平和への貢献の一助になるのだ。


PT PINDADという国有の軍事機材開発製造会社は由緒を遠くさかのぼることができる。こ
のピンダッという名称はPerINDustrian Angkatan Daratの短縮語だが、決して共和国政府
が最初からその名前でこの会社を興したわけではない。この会社の発端はヘルマン・ヴィ
レム・ダンデルス第37代総督が1808年スラバヤに発足させたオランダ東インド軍の
ための武器兵器生産・改造・メンテナンス工場なのである。それはVOC消滅後の軍事力
空白期に、東インド防衛のためにダンデルスが作り上げた新しい軍隊を装備面で支える柱
となるべくして誕生したものだったのだ。それはConstructie Winkelと命名された。実に、
ヌサンタラにおける軍事産業の第一ページを飾る会社だったのである。

オランダ語のヴィンクルという言葉は英語のワークショップに対応していて、インドネシ
ア語bengkelの語源になった。オランダ語ではワークよりもショップの意味で使われるこ
とが多かったらしく、店員・店主・ショッピングセンター・アーケード・ショーウインド
ーおまけに万引きにまでその語が使われている。インドネシア語のベンケルは加工作業が
そこで行われるのが普通の用法になっていて、単に商品を並べて販売しているだけのショ
ップをベンケルと呼ぶことはしないようだ。

ダンデルスはさらに大型の弾薬製造工場をスマランに設けてProyektiel Fabriekと呼んだ。
そこには化学薬品ラボが付属した。オランダ語のファブリックは英語のファクトリーであ
り、それがインドネシア語pabrikの語源になった。[ 続く ]