「陸軍点描(4)」(2023年02月10日)

1850年、オランダ東インド政庁は海軍のための弾薬製造工場をスラバヤに設けて、そ
れをPyrotechnische Werkplaatsと称した。翌1951年、ダンデルスがスラバヤに作っ
たConstructie Winkelの名称が変更されてArtillerie Constructie Winkelとなり、その
傘下にスマランの弾薬製造とスラバヤの弾薬製造および化薬品ラボが含められて単一事業
体の形に変化した。

それから半世紀以上が過ぎて、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、政庁は戦略的
に重要な産業をより安全な場所に移すことを考えた。海岸から近い場所よりも内陸山岳部
の方が敵に奪われにくいと考えたのかもしれない。スラバヤのACWと傘下工場は1918
〜1920年にバンドンに移され、バタヴィアのメステルコルネリスに設けられた兵器改
良とメンテナンスの教育を行う機関もバンドンに移った。化薬品ラボはスマランで活動を
続けたが、1932年にバンドンに移って全員集合が成り、最終的にバンドンに集まった
武器兵器産業はArtillerie Inrichtingenの名称でひとくくりにされた。


日本軍がインドネシアを占領したあと、火砲設備グループのキアラチョンドンに設けられ
た武器兵器製造工場は第一鋼造と命名されて最重要工場になり、メステルから移った教育
機関が第二鋼造、化薬品ラボが第三鋼造、弾薬製造工場が第四鋼造、パナママウント工場
が第五鋼造とされた、とイ_ア語ウィキペディアに書かれているが、別のサイトには異な
る内容が記されていて、確信が持てない。


共和国独立宣言のあと、進駐して来たAFNEI軍とジャカルタ市民の間で戦闘が始まり、
AFNEI軍がジャカルタの鎮圧にかかりきっているとき、バンドンで独立派市民と青年
層が主要施設の接収を始めた。その結果、ジャワ全島の鉄道を総括する鉄道本部、電信電
話局本部、キアラチョンドンの第一鋼造などがインドネシア人の手に落ちた。インドネシ
ア人は第一鋼造をPabrik Senjata Kiaracondongと呼んだ。

その状況を復旧してバンドンの統制を確保するために、AFNEI軍は共和国国民保安軍
と民兵に対する攻撃を行ってプリブミ市民をバンドン市内から追い払った。市民は市内か
ら退去するとき、自分たちの暮らしていた街がアンチ共和国の西洋人に利用されることを
嫌って、全市を火の海にして去って行った。それが後にバンドン火の海事件と呼ばれて、
愛国精神を国民の胸に呼び覚ます社会記憶となって定着した。

バンドンを取り戻したNICAはキアラチョンドン兵器工場を銃火器生産部門と弾薬生産
部門に分け、それと化薬品ラボをセットにしてLeger Produktie Bedrijvenを作った。日
本人が第二鋼造と呼んだ元来の教育機関はCentral Reparatie Werkplaatsになった。


1949年12月27日のインドネシア共和国主権承認調印のあとLPBはインドネシア政
府に移管され、インドネシア人はそれをPabrik Senjata dan Mesiuと呼んだ。この武器火
薬工場の主人になったインドネシア人はまず9ミリ口径ライフル銃の製造に取り掛かり、
1950年11月にはそのマスプロ生産が開始された。

工場側は銃器の機種を増やして生産量も向上させようとしたが、なかなか円滑には進まな
い。主権承認後もインドネシアに住んで設計や生産活動の中核を担っていたオランダ人が、
インドネシア側の対オランダ政策の変化によってインドネシアでの居住を諦め、オランダ
に去って行く傾向が生じた。立ちどころに工場での生産活動に影響が及び、最悪の時期に
は生産ラインが半減以下になったこともある。一方で新型生産機器の導入をはかり、また
小口径弾薬生産ラインを新設するなど、工場も適宜必要な対策を推進した。

1958年12月、工場が陸軍直轄になってPabrik Alat Peralatan Angkatan Daratと改
名され、その長すぎる名前はPabal ADと短縮された。パバルADになってから、技術者の海
外研修が行われるようになり、その流れの中で形成されたビジネス関係が外国同業先進メ
ーカーからの技術指導や共同開発の道を開いた。軽火器を専門にする部門が作られ、マラ
ン県トゥレンにあったキャッサバ製粉工場で新部門は弾薬製造を開始した。[ 続く ]