「ジュナン(1)」(2023年02月10日)

ジャワ語のjenangは濃い粘液状の粥やモチモチした固形菓子を指す言葉だ。そんな固形菓
子の中にdodolが含まれているので、他地方ではドドルと呼ばれる食べ物をジャワ人はた
いていジュナンと呼びならわしてきた。ジュナンはジャワ語からインドネシア語に摂りこ
まれて、1.bubur kental、2.dodolがその語義にされた。

ムラユ語のbuburという言葉は、食べ物以外に濃い粥状になった食べられないもの(bubur 
kertas, bubur semen, bubur gipsum, bubur bijihなど)を示すのにも使われるが、ジュ
ナンは食べ物しか示さないようだから、言葉の用法に違いがある。

ジュナンという言葉自体にしても、jenang suro, jenang abang, jenang baro-baroなど
のような粥状の伝統食品の名称として使われ続けている事実がある一方で、ブブルアヤム
をジュナンアヤムと言うジャワ人はいないように見えるし、おまけにbubur suro, bubur 
abangなどのようにbuburがjenangを押しのけて使われている面すら見受けられることから、
どうもジュナンは原義の粥から離れてドドルにウエイトを移している状況が起こっている
ように感じられる。


料理研究家の中にも、ジュナンの用法には地域性があって、ジュナンを粥の意味で使って
いるのはソロがメインであり、他の地方ではたいていドドルを意味しているという見解が
語られている。たとえばクドゥスの地名が冠せられたJenang Kudusがそうだ。この食べ物
は疑いもなくドドルなのだ。

ジュナンクドゥス発祥の地と言われているカリプトゥ村に伝えられている話によれば、ワ
リソ~ゴのひとり、スナンクドゥスがサリディン、ンバデンポッとその孫を連れて旅をし
ていたとき、悪霊バナスパティに襲われてンバの孫がカリプトゥ河に落ち、流された。

子供が流されてきたのを見た住民が急いで岸に引き上げたが、その子はピクリとも動かな
い。そのうちにスナンクドゥス一行が子供を探しにやってきたので引き渡した。住民の話
を聞いてスナンクドゥスは子供は死んだと思った。ところが弟子のサリディンが、仮死状
態になっただけで死んではいない、と言う。

サリディンは住民にbubur gampingを作ってくれと頼んだ。ブブルガンピンは米粉・塩・
ココナツミルクを混ぜ合わせ、それを熱して作る粥だ。できてきた粥をンバデンポッが孫
の口に入れると、孫は眠りから覚めたように目を開いた。それを見たスナンクドゥスはこ
う語った。Suk nek ana rejaning jaman, wong Kaliputu uripe saka jenang. この地が
賑やかな時代になれば、カリプトゥのひとびとはジュナンで生きるようになるだろう。


ジュナンクドゥスの由来に出てくるブブルガンピンには別バージョンがあり、石灰岩を指
すgampingがその意味で使われている。カリプトゥ村で弟子サリディンの神通力を試すた
めにスナンクドゥスは石灰岩採掘場にある石灰を泥状にしたbubur gampingを食べろと命
じた。サリディンは平気な顔をして泥状のものから固形になったものまで、石灰を食べた
が、何ひとつ異状は起こらなかった。それを見たスナンクドゥスは「スッネッオノ・・・」
の言葉を語った、というのがこちらのバージョンの内容だ。このバージョンではブブルガ
ンピンでなくてジュナンブブルガンピンという表現がなされている。

これらの言い伝え話を語る現代のクドゥス住民がブブルを粥の意味で使い、ジュナンをド
ドルの意味で使っているのは明白だ。しかしスナンクドゥスが語った言葉として述べられ
ているジュナンはいったいどちらの意味だったのだろうか?


それはともあれ、クドゥス市内カリプトゥ村は今でもたくさんの住民がジュナンクドゥス
を販売用に作っている。この食べ物がジュナンクドゥスと呼ばれるようになる前は、ブブ
ルガンピンと地元民は呼んでいたそうだ。昔はたいてい生産者がパサルに持って行って、
商標も商品名も付けずに販売していた。

現在、代表的ブランドのひとつになっているMubarok印のジュナンクドゥスは1910年
に生産が開始された。住民女性アラウィヤさんが毎日35キロものジュナンを作って、ム
ナラクドゥスモスクに近いパサルで販売した。商標も包装も一切なかった。アラウィヤさ
んがマブルリさんと結婚してから、アラウィヤさんのジュナンが商品としての体裁を整え
るようになった。[ 続く ]