「ジュナン(2)」(2023年02月13日)

1936年、アラウィヤのジュナンはHMRというブランドが付けられて、パンダン葉に
個包装されたものになった。HMRとはハジマブルリの頭字語だ。アラウィヤもメッカ巡
礼を済ませてからハジャアラウィヤと呼ばれた。

1940年にハジマブルリが没して息子の一人アッマッ・ソヒブが事業を継いだ。この二
代目のときに新しいブランド名Sinar Tiga Tigaが付けられ、1946年に商標登録がな
された。33というのは家の番地だそうだ。1992年に三代目に交替してから、それま
で家内工業的に行われていた生産工程が徐々に機械化されるようになった。

この三代目社長もジュナンとドドルという名称に戸惑ったようだ。中部東部ジャワとヨグ
ヤではジュナンの名称で問題ない。ドドルはドドルガルッの名が全国に知れ渡っているよ
うに西ジャワを連想させる。

調査が行われて、ドドルガルッの大手ブランド「ピクニック」の生産者を訪問したことも
ある。そしてかれは、そこで面白い因縁話を耳にした。ピクニックブランドの創業者はな
んと、ドドル生産事業を開始するにあたって、1940年にジュナンクドゥスの製法を学
びにかれの会社を訪れていたことが分ったのだ。

最終的にPTムバロッフードはドドルの名称をパッケージに書いたものをバリ・北スマト
ラ・南スマトラ・バタム・スラウェシ・西ジャワで販売することにした。ジュナンクドゥ
ス「ムバロッ」は中部東部ジャワ・ジョグジャ・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・
香港・サウディで販売されている。


インドネシア人にとっての粥は、塩味粥と甘粥が対等で並立しているような印象を受ける。
形態が同じようなものであることを基準にして、味によってその認識方法を違えることな
く、同じものとして捉えてきたのだろう。特に甘粥のバリエーションの多さは驚嘆ものだ
と言えないだろうか。

ヌサンタラに住むひとびとが昔から、さまざまな味と食感が口中で混じりあうことを愉し
み、高い許容度でそれを受け入れてきた民族だったことにこの現象は一脈通じているよう
な気がわたしにはするのである。

粥とドドルがひとつの言葉で呼ばれるのは、粘液状の粥を煮詰めて水分を飛ばすことで最
終的にジェリー状の固体ができあがるというプロセスに着目した結果ではあるまいか。両
者は単に時間差(プロセスの段階)によって異なる形態になるだけの、本質的に同じもの
だという理解なのかもしれない。

インドネシアではアチェからパプアに至るまで、各地方にその土地を象徴するような粥が
あり、その地を訪れた来訪者からお呼びがかかるのを待ち受けている。インドネシアの粥
に関する概論は拙著「ヌサンタラのお粥」をご参照ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/75Bubur-in-Nusantara.pdf


ジャワ文化で粥は古い時代から、儀式の供物や大勢のひとびとが集う宴の場に欠かせない
食べ物になっていた。ジャワの粥について述べている最古の文献は12世紀の東ジャワに
あったクディリ王国の宮廷文学者ンプタナクンの書いたSerat Lubdakaとされていて、そ
こにはikang carububur pehan bubur gula liwet acarub katak wilisという文が見られ
る。「供されたものには、bubur santan, bubur gula jawa, nasi liwetに青蛙のおかず
を添えたものなどがあった」というのがその意味らしい。何百年にもわたって粥が民衆祭
事における伝統的な食べ物であったことをその文献が示している、とヨグヤカルタの歴史
学者は語っている。[ 続く ]