「陸軍点描(6)」(2023年02月14日)

ピーター・ブルックスミスが2000年に著した「スナイパートレーニング、技術と武器」
と題する書物に世界のベストスナイパー14人の名前が挙がっており、その中にインドネ
シア人の名前が記されている。タタン・コスワラ陸軍一級准尉がその人物だ。

タタン・コスワラは1966年にバンテンの陸軍に入隊し、29年間の軍人生活を送り、
退役したあと2015年に没した。遺体はバンドンの公共墓地で眠っている。最初かれは
兵士として軍役を務め、下士官に昇ってから歩兵兵器センターで勤務した。狙撃兵の道を
歩み始めたのはそのころだったようだ。

先に特別襲撃部隊員の訓練を受けてからスナイパーの訓練に進み、1974年から75年
にかけて米国に派遣されて米軍グリーンベレーの訓練を受けた。スナイパーとしてのレベ
ルは陸軍でS3と呼ばれる最高のものだそうだ。かれの最終職掌は国軍歩兵兵器センター
の狙撃科教官であり、陸軍特殊部隊Kopassusの兵員をも指導した。現役中の1977〜7
8年には東ティモール戦に従事して、4回の戦闘で活躍した。


国軍では、戦闘行動が命じられると中隊ごとに必ず狙撃兵が配置される。狙撃兵の需要は
大きいのだが、狙撃兵の養成はなかなか人数を増やすことがむつかしい。精神面での忍耐
力と頭の良さがひと一倍要求されるためだ。その要素が十分でない者はいくら射撃が巧み
でも狙撃兵としての完璧な役割を果たすことができない。

戦場では単独行動し、敵に見つからない場所に身を隠し、敵の要人を見つけ出して撃つの
である。すべてが自己の判断と行動に委ねられていて、命令や指揮をする上官もいない。
敵に見つからないどころか、その存在を敵に察知されてもいけない。何日間もじっと身を
潜め、敵軍内で重要な役割を演じている者を見つけ出し、最適な機会にそれを撃つ。そう
することで敵軍内の指揮系統に大きい打撃を与えるのである。優秀なスナイパーひとりが
数百人の戦闘部隊に劣らぬ効果を発揮するのだ。平和時にそのようなスナイパーは超重要
人物の身辺警護の任務に就いている。


コパッススの誕生は1950年の南マルク共和国反乱が導いたものだ。国軍側はカウィラ
ラン大佐とスラマッ・リヤディ中佐を司令官とする第3地区軍が反乱軍を鎮圧したものの、
兵力火力に優っているはずの国軍がしばしば弱小の反乱軍に撃退されて多くの被害者を出
したことが特殊部隊の必要性をクローズアップした。

戦闘技術・判断力に優れた兵士を集めて編成された部隊に高い機動性を持たせて戦場の中
に生じた要所に向かわせる方式は、戦場というものの様相を一変させてしまうだろう。ス
ラマッ・リヤディ中佐はそのアイデアの実現に向けて試行錯誤を開始したものの、実現を
見ないうちに戦場で没した。

それを引き継いだカウィララン大佐は1952年4月16日に第3地区軍コマンドユニッ
トを公式に発足させた。オランダ東インド軍特殊部隊員の経験を持つモハンマッ・イジョ
ン・ジャンビ少佐が新生特殊部隊の指揮官に任じられた。後に陸軍コパッススになる特殊
部隊の誕生がそれだった。

陸軍司令部はすぐにそのアイデアを普遍化させて、1953年に陸軍コマンド部隊を設け
た。Resimen Pasukan Komando Angkatan Daratという連隊組織でスタートし、名称はすぐ
に陸軍コマンドユニットに変更された。1955年にはまたResimen Para Komando ADに
戻されたものの、1966年にPusat Pasukan Khusus TNI ADに変わってから、1971
年のKomando Pasukan Sandi Yudhaという名称を経た上で1985年にKomando Pasukan 
Khususになって現在に至っている。このKOmando PASukan khuSUSという部隊名称が泣く子
も黙るインドネシア陸軍特殊部隊をシンボライズしている。[ 続く ]