「陸軍点描(終)」(2023年02月15日)

2016年のコンパス紙記事によれば、コパッススの部隊組織は次のように構成されてい
る。総司令部は東ジャカルタ市パサルボのチジャントゥンに置かれ、そこには実動部隊第
3グループと第81ユニットが同居している。バンドンのバトゥジャジャルには教育訓練
センター、バンテン州セランに実動第1グループ、中部ジャワ州ソロに実動第2グループ
が配置されている。

コパッススが歴史の中で紡ぎ出した赫赫たる成果には次のようなものがある。その筆頭が
タイのドンムアン空港におけるハイジャックされたガルーダ航空機の解放作戦だろう。1
981年に起こったこのハイジャック事件では、ジャカルタ発メダン行きガルーダ航空DC
-9機が5人の武装ハイジャッカーに乗っ取られてマレーシアのペナンへ行くよう命じられ、
その後バンコックに飛んだ。ドンムアン空港で駐機中のガルーダ機に、バンコックに出動
したコパッスス部隊員が突入してハイジャッカーを倒し、全乗客と乗組員を解放するのに
成功した事件だ。

1996年にはパプアムルデカが拉致したロレンツ探検調査団の学者たちを救出し、19
97年にはエヴェレスト登山を行って、東南アジア初の登頂を成功させた。2008年に
はディスカヴァリーチャンネルがコパッススを世界第三位のエリート戦闘集団に位置付け
た。イギリスSAS、イスラエルMOSSADに続く栄誉だ。


国連の派兵要請に応じてコパッススが海外に出動することは昔から行われてきた。196
2〜63年にコンゴに向けて派兵されたガルーダ第3派遣部隊の特殊部隊員30名がタン
ガニーカ湖で2千名の反乱兵を投降させたできごとは世界の戦史に残るエピソードとして
語られている。

その当時、コンゴの民衆はたいへんに迷信深かった。その心理をとらえて、特殊部隊員は
奇妙な作戦を立案した。コンゴ人に幽霊だと思わせる姿をして反乱軍部落に接近し、攻撃
をしかけるアイデアだ。

夜明け前のまだ深い闇の下で、隊員は白い長衣を着て小舟に乗り、さまざまな音を鳴らし
ながらタンガニーカ湖西岸の反乱軍部落に接近して行った。たいした応戦も起こらず、反
乱軍は湖から来た幽霊に降伏したそうだ。


スカルノレジーム末期にマレーシア連邦結成に反対してインドネシアが起こしたドゥイコ
ラ作戦のおり、バトゥジャジャルで特殊部隊員の教育訓練を受けた経験を持つスンビ准尉
が北カリマンタン国軍内で兵員を募り、ディポヌゴロ師団からの志願兵を加えて50人の
潜入部隊をヌヌカンから隣国に送り込んだ。もちろん指揮官のスンビも一緒だ。この部隊
の目標はブルネイの油田からサバ・サラワクに通じる油送パイプと設備を破壊して敵国を
混乱させることにあった。

国内かく乱を目的にしてインドネシアの戦闘部隊が領土内に潜入したことをイギリス軍が
知ったのは1966年6月で、SASを中心にしたイギリス軍、オーストラリア・ニュー
ジーランドおよびグルカ兵インド人部隊が総出で潜入部隊の発見逮捕に動き出した。

潜入部隊は身を隠すためにカリマンタン島中央部の山岳地帯を覆っている未開のジャング
ルを移動し、標高1千8百メートルを超える高山をも通った。しかしこの作戦はたいした
戦果をあげることができなかったようだ。隊員は敵に捕まったりして減少し、指揮官のス
ンビはその年9月2日にイギリス軍に捕らえられた。


東ティモールで対フレティリン鎮圧戦争を行っていたインドネシア国軍ナンガラ部隊所属
の一小隊が1983年1月、突然に圧倒的多数の敵と遭遇した。そのとき、ポニマン・ダ
スキ中尉率いる小隊は9人になっていて、3百人の敵に襲い掛かられたのである。特殊部
隊員スパルラン一等兵が9人の中にいた。スパルランは仲間を逃がすために敵軍の前に躍
り出て敵の注意を集め、銃を撃ちまくった。そして弾丸が撃ち尽くされると、今度は手り
ゅう弾を握りしめて敵兵の中に突進し、敵兵を道連れにして自爆した。

フレティリン部隊指揮官はその姿に感銘を受け、スパルランの最期を知らせるためにイン
ドネシア国軍司令部に手紙を送った。スパルランは上等兵に特進され、加えてバトゥジャ
ジャルの教育訓練センター内にある訓練場のひとつにかれの名前が冠せられた。[ 完 ]