「インドネシア諜報史(前)」(2023年02月16日)

ライター: コンパス紙記者、イワン・サントサ
ソース: 2015年1月26日付けコンパス紙 "Penggawa dari Masa ke Masa" 

最初に作られたインドネシア諜報機関はBadan Rahasia Negara Indonesiaという名称にな
っていた。短縮名称はBRANIとなる。インドネシア共和国大統領をユーザーにするこの機
関は、オルバ時代に6回名前を変えた。Badan Koordinasi Intelijen NegaraはBAKINと呼
ばれてポピュラーになり、メガワティ大統領時代にはBadan Intelijen Negaraと改名され
てBINと呼ばれた。

マレーシアとの対決時代にBiro Pusat Intelijenだったこの機関名は、32年間続いたス
ハルト大統領率いるオルバレジームの初期にKomando Intelijen Negara (KIN)に変更され
た。ABGと呼ばれた、オルバレジームを支える三本柱としての国軍・行政機構・ゴルカ
ルという政権基盤の中心的役割を軍と諜報界が担った。


オランダに支配されていた時代はオランダ東インド政庁に、プラムディア・アナンタ・ト
ゥルが「人間の大地」から「ガラスの家」に至る歴史小説の中で何度もその名を述べてい
る政治情報局Politiek Inlichtingen Dienstと呼ばれる部門があった。20世紀初めにヌ
サンタラに設けられたその諜報機関によって、インドネシアプリブミ社会の暮らしがいか
に支配者の監視の目の行き届く透明なガラスの家にされていたかをそのタイトルは象徴的
に物語っている。植民地支配者への批判を最大の脅威と見なしたことで、オランダ東イン
ド諜報機関は世界の変化と国外からの脅威(つまり太平洋戦争)に対して後れを取ること
になった。

概略はそうだったにせよ、ヌサンタラの歴史における左翼右翼運動から社会に生まれたさ
まざまな政治的宗教的流派に至る詳細な全貌をPIDは正確に記録した。インドネシア共和
国初期の時代に極左極右に位置付けられたグループもそこに含まれている。社会主義・共
産主義・宗教硬派の諸グループがPIDの記録に詳述されているのである。


インドネシア大学卒の歴史家で、マウルウィ・サエランの生涯を著述したヘンドリFイス
ナエニは、現代インドネシアに存在している過激派グループの生成発展の経緯をインドネ
シアの諜報機関が解明するのにPIDの保存資料が利用される可能性は低いと語っている。

「インドネシア諜報界の父、スルキフリ・ルビスは日本軍諜報機関に育てられた。かれが
オランダの資料や手法を使った可能性は低い。彼の思考パターンやスタイルは日本陸軍の
ものを基盤に置いていた。」スルキフリ・ルビスの実子、フィルマン・ルビスにインタビ
ューしたことのあるヘンドリはそう述べている。

1945年から始まって1998年のレフォルマシ以後まで続いているインドネシアの社
会生活の状況は、BRANIからBINに至るまでの各諜報機関時代にその長官が取った方針の影
響を色濃く受けた。少年期の名前ヤンで呼ばれることも少なくないスルキフリ・ルビスは、
あの時代に日本の議会で優勢だった日本陸軍の主要パターンである二重機能に影響された。

日本ファシズム占領時代にマラヤ・ジャワ・スマトラは陸軍の管轄下にあった。カリマン
タン・バリ=小スンダ・スラウェシ・マルク・パプアは日本海軍の管轄下に置かれた。そ
の状況がスルキフリ・ルビスをして種々の役割を積極的に担わせるように方向付け、その
結果チキニでのブンカルノ手りゅう弾襲撃事件の嫌疑まで受ける破目になった。


マレーシア撲滅闘争時代に、BPIはスバンドリオが統率した。外相と第一副首相を兼務し
ながらの就任だった。伝統的に諜報界を牛耳っていた軍部はスバンドリオが指揮する諜報
活動に大反対した。スハルトレジームになってスバンドリオは結局、29年半の間、政治
犯として闇の中に押し込まれた。

カリマンタンで軍管区司令官を務めたことのあるスハリオ、別名ハリオ・ケチッは回想録
の中で、「カリマンタンの国境付近で国軍部隊と民間人志願兵部隊が行ったイギリスコモ
ンウエルス部隊との戦闘では、往々にしてインドネシア側が不利な状況に置かれて犠牲者
をたくさん出した。それはインドネシア軍側の内部状況が敵に洩れていたためだった。」
と記している。諜報部門の内部不統一と反スパイ活動の粗漏を浮き彫りにしたような話だ。
[ 続く ]