「インドネシア諜報史(後)」(2023年02月17日)

1950年代に多数の陸軍士官が米国で特別訓練を受けた。それは米国とソ連間の冷戦が
激化した時期であり、1989年まで続いた。米軍による特別訓練の初期にインドネシア
の陸軍諜報部門士官はフィリピンの東側にあるサイパン島で訓練された。数波に分かれて
米国式訓練を受けた諜報士官たちが、スハルトレジームの権力構造を支えるバックボーン
になったのである。

1959年に米国のスタッフ・コマンド教育機関で訓練を受けたひとりであるストポ・ユ
ウォノが1968年から1974年までKINとBAKINを統率した。1967年5月16日の
コンパス紙によれば、かれは1965年10月1日午前6時にパンガベアン少将と共にジ
ャカルタからカリマンタンに飛んだ。そしてG30SPKI事件の発生をカリマンタンで
知った。

かれを交替して1974年から1989年までBAKINを統率したヨガ・スゴモ中将は日本
軍政期に日本の軍隊教育を受け、更にイギリスのマンスフィールドでの教育を経たのち、
米国のニューヨークで常駐代表部の長を務めた。1978年5月9日付けコンパス紙は記
事の中で、共和国独立闘争期以来かれは諜報部門の任務に就いていたと書いている。

その時期、インドネシアは米国および西側陣営と親密な関係にあった。ヘンドロプリヨノ
の指揮下にあったBINの時代に書かれたケン・コンボイの著作「インテル:インドネシア
諜報機関の内側」に記されているように、ソ連・北朝鮮・東側陣営諸国の代表部事務所は
インドネシア諜報機関の作戦目標になった。日本赤軍やPLOあるいは宗教過激派グルー
プからの攻撃への対応やラディカリズムの弱体化、その他種々の諜報作戦をBAKINは展開
している。


オルバレジーム末期の1989年から1996年4月まで、スディビヨ中将がBAKINを率
いた。スディビヨはその就任スピーチで、ますます拡大する貧富の差こそが脅威なのであ
り、学生は自分たちの知識人としての役割を自覚するべきであり、学生を脅威と見なすこ
とはしない、と語っている。

1996年4月にBAKINを引き継いだムトイブ中将の統率期間は短かった。1996年4
月から1998年5月21日までだ。新長官になって間もなく、1996年7月27日事
件が発生した。メンテン地区ディポヌゴロ通りにあるPDIP党本部襲撃事件だ。BAKIN
長官の交代時に政治情勢は既に熱を帯びていたのである。かれの退任はスハルト大統領の
辞任とほぼ時を同じくしていた。


そのオルバ期に次のような一連の事件が起こっているのだ。1975〜76年東ティモー
ル軍事作戦、1981年ガルーダ航空機ハイジャック事件、1984年タンジュンプリオ
ッ事件、1985年チャンディボロブドゥル爆弾事件、1989年ランプンのタランサリ
事件、1991年東ティモールのサンタクルス事件、1996年7月27日暴動、199
8年5月暴動。


BAKINはメガワティ時代にBINとなり、カリマンタン出身のZAマウラニが1998年5月
から1999年まで統率した。マウラニはイスラム布教に熱心だったことで知られている。
アリJクマアッがマウラニを交代した。1999年から2001年までのアブドゥラッマ
ン・ワヒッ時代だ。そのあと、2001年8月9日から2004年12月8日まで、AM
ヘンドロプリヨノがBINを指揮している。

スシロ・バンバン・ユドヨノというスターを出現させた大統領直接選挙時代にBINの長官
はシャムシル・シレガル中将、スタント将軍、マルチアノ・ノルマン中将と続いてからジ
ョコ・ウィドド時代に突入した。

これからの諜報界はシミュレーションとソルーションの力を持たなければならない、と諜
報分野のオブザーバー、スサニンティヤス・クルトパティは要求している。国家の保安を
あずかる諜報活動の真髄として、諜報担当者には速くしかも的を射たアクションが求めら
れているのである。[ 完 ]