「プユム(前)」(2023年02月16日)

ジャカルタから東へ向かうのにまだトランスジャワ自動車専用道がなかったころ、わたし
はいつもチカンペッ自動車道を終点まで走り、料金所を出てから左に折れてジョミンの三
叉路に向かい、チカンペッとスバンを結ぶ国道一号線に乗り入れるのが定常ルートだった。
ジョミン三叉路に向かうその道路はバイパスとして新たに作られた、広くて素晴らしい舗
装道路だった。

その道路の両脇にはスンダ料理レストランやワルン、土産物屋などが並び、土産物屋の軒
先一面に吊るされたプラ袋の中の、なにやら白くて長い物を目にして、スンダの地に入っ
たのだという思いを抱くのが常だった。その白くて長い物がpeuyeumだ。


スンダ語には/eu/という表記がある。これは[e]と[u]を同時に発音する音だと説明されて
いるのだが、スンダ人の中には[u]は本当に発音されているのでなく、口の形がそのよう
になっているだけだと説明するひともいる。スンダのワヤンゴレッのキャラクターのひと
つ、シチェポッのような口の形で「エ」を発音するのだそうだ。

確かに口を[u]の形にして「エ」と強母音を発音しても、音は弱母音にしかならない。そ
うなるとスンダ語もインドネシア語同様に/e/の弱母音と強母音の違いが文字表記でなさ
れていないから、/e/は強母音、/eu/は弱母音のような印象を受けてしまいそうで、これ
は危険な落とし穴になるかもしれない。

インドネシア語も昔は/e/の上にv記号を書いていたから判りやすかった。ところがあると
きそれをやめてしまって強音の「エ」も曖昧音の「エ」も文字から見分けのつかないもの
にされてしまった。現実に弱音の「エ」を強音の「エ」で発音する種族がヌサンタラにい
て、ジャワ人がしばしば冗談のネタにしているのだが、もしもビンネカトゥンガルイカの
旗の下では発音の多様性も受け入れられるべきだという理想論が働いたのであれば、言語
学習者にはかえって負担になっているかもしれない。


その/eu/音で発音するプユムとはキャッサバの根を発酵させた食べ物で、インドネシア語
ではtape singkongと呼ばれている。しかしそう書いては語義論的に不正確のそしりを免
れないだろう。スンダ人にとってはpeuyeum sampeuもあり、そしてpeuyeum ketanもある
のである。

逐語訳的に言うなら、それぞれはインドネシア語のtape singkongとtape ketanに対応し
ており、つまりpeuyeum自体の語義はtapeなのであって、その一語がtape singkongを意味
しているのではないのだ。ところがわたしの言語体験を語るなら、わたしと一緒にジャカ
ルタからスンダの地へ同行したインドネシア人はひとり残らず、タペシンコンをプユムと
呼んだのである。わたしがタペシンコン=プユムという理解を持ってしまったのは必然の
なせる業だったと言えよう。


ヌサンタラに中南米からキャッサバが持ち込まれた事始めはポルトガル人のマルクだった。
しかしその時代にヌサンタラの域内にはあまり広まらず、せいぜいヌサトゥンガラや北ス
ラウェシなどの近場に拡大した程度だった。基本食糧をコメにしていない地方の飢餓対策
から始まったものだったのかもしれない。

オランダ人が1835年にキャッサバを栽培制度下に全国展開させ、安物ウイスキーの原
料にするためヨーロッパに輸出した。ジャワ島に広まったのはその時期だったように思わ
れる。そのとき、ジャワ人はシンコンを貧困者向けの代替食糧と位置付けたのではないだ
ろうか。米どころのジャワでは往古から、女神がもたらした生命の源泉である高貴な食べ
物こそが基本食糧という価値を与えられていたわけで、ヨーロッパ人が持ってきたイモの
仲間はコメに縁遠い階層がコメの補完食糧として食べるものだという観念が自ずとできあ
がったのではあるまいか。その観点は事の発端から既にキャッサバにまとわりついていた
と言えるかもしれない。

そのため、ジャワ人社会では百年以上にわたってシンコンに貧困の観念が染みこんだ。そ
の観念をスンダ人も同じように抱いた。貧困のシンボルという観念はミドルクラスの行動
に影響を及ぼすものだ。貧困層はそんなことを気にしてはいられないから、空き地で成育
させたシンコンを適宜処理して腹に入れた。その処理方法のひとつがプユムだった。

持てる階層が作って食べるプユムは白黒のモチ米を使うものだった。モチ米のプユムは習
慣としてルバランなどの大祭や、割礼祝などの祝祭に食べるものになっていたが、かとい
ってそんな決まりがあるわけでもないから、好きなひとはいつでも食べていた。発酵食品
の愛好者というのは世の中にいるもので、ムスリム社会であっても違いはない。そんなひ
とびとがたまたまどこかでシンコンのプユムを食べたところ、頬が落ちた。甘さと滑らか
さがかれらの口をとりこにしたにちがいあるまい。

そんなひとびとが、隣近所の目を避けてこっそりとそれを買いに行く姿が見られるように
なった。1970年代ごろまで、ジャワ島はそんな価値観に覆われていたという話だ。
[ 続く ]