「プユム(後)」(2023年02月17日)

ボゴール市南ボゴールのクルタマヤ村の青年が、プユムの巡回販売を始めた。1970年
のことだ。当時25歳だったアディン青年が日々、50キロものシンコンのプユムを天秤
棒で担いで住宅地区を売りまわる仕事を始めた。

少年期にかれは今の小学校にあたる国民学校を2年で中退したのだ。学歴のない、しかも
資金もない自分にできる仕事はくれくらいだと決心して、かれはその仕事で食べていくこ
とを始めた。実際、この商売から十分な利益が得られたとかれは語っている。毎日稼いで、
食べていくのに十分な収入が得られた。かれがはじいた算盤は外れていなかった。

かれの選択の根拠のひとつに、クルタマヤ村からあまり離れていない位置に、プユム生産
センターになっているボジョンクルタ村があった。商品の仕入れに絶好の条件だったよう
だ。かれは商品にシンコンムンテガを選択した。

スンダ地方でシンコンのプユムは普通、白い色をしている。一方、全国のスーパーマーケ
ットなどで売られているシンコンのプユムはたいてい黄色い色をしている。黄色いのはシ
ンコンムンテガと呼ばれている種類だ。バターのイメージは何に由来したのだろうか。


2000年ごろのクルタマヤ村には、他のだれひとりとしてプユムの巡回販売をする者は
残っていなかった。アディンひとりがロンリースターとなって輝いていたのである。アデ
ィンは毎朝午前7時に荷を担いで家を出る。平常月だと荷が売り切れるのは15時ごろが
普通だが、ラマダン月にはなんと午前11時ごろに売り切れることが再三起こる。

毎年ラマダン月になると、どの家もブカプアサの軽い食べ物「タジル」を用意する。プユ
ムサンプはそれに最適な食べ物なのだ。水気のあるコランカリンと一緒に食べれば、だれ
もが断食の行から生き返ったように感じる。

だったら、商品を二倍にすれば売り上げは倍増するではないか。「うわあ、わたしゃ50
キロ担いで歩き回るのが精一杯だよ。二倍も担げるわけがない。」

ラマダン月の最初の二週間は少し値段を引き上げて二三割り高くする。それでも、誰も値
段のことなど言わないで、争って商品を買う。2週間が過ぎれば落ち着いてくるから、値
段をまた普通に戻している。


アディンは自分でプユムを作る。パサルへ行ってシンコンムンテガを60キロほど買って
来る。皮をむき、蒸し、冷ましてから酵母菌を加えて三日ほど置く。できあがったプユム
は10キロ程度に目減りしている。

アディンが売り歩く住宅地区に、得意客がたくさんいる。たいてい三日から七日に一度、
アディンを呼び止めてプユムを買う。アディンのプユムは他の物より上等だとみんな言う。
一度試食したら、たいていお得意さんになるそうだ。毎週金曜日を休日にして、アディン
は南ボゴールの住宅地区を毎日巡回している。


スンダ人もプユムサンプを加工して食べることを考え、そしてユニークな名前を付けた。
チョレナッと呼ばれる食べ物は焼いたタペシンコンにソースを付けて食べる。ソースはグ
ラメラとヤシの果肉を液状にしたもので、手にしたシンコンでソースをつついて食べる作
法がインドネシア語でcocolと表現されるために、dicoCOL ENAKと命名されたそうだ。

バンドンでチョレナッの創始者と言われている「チョレナッ・ムルディ・プトラ」の店は
市内アッマッディヤニ通りにある。1930年にその店はその場所でもっと小さい規模で
スタートした。そのころ若かったムルディ爺さんは毎日、店の表でプユムサンプを焼いて
いたそうだ。

現在の店主ベティ・ヌラエティさんはムルディ爺さんの孫に当たる。チョレナッはクルプ
ッアチと一緒に食べるとよく合う、とかの女は勧めた。アチaciとはキャッサバ粉のこと
だ。ときどきAku Cinta Indonesiaのバクロニムに使われている。初代のとき、チョレナ
ックのソースは一種類だったが、今ではナンカ味とドリアン味がバリエーションとして加
えられている。

ムルディ爺さんはプユムサンプをバンドン県チムニャン郡の生産者から仕入れていた。チ
ムニャン郡は名の知られたプユム生産センターだ。既に三代目になったチョレナッ店主と
プユム生産者のビジネスは百年近く経った今でも続いている。もちろん生産者の方でも何
代か世代交代が起こっているそうだ。

仕入れるプユムは白色の普通の種類で、発酵のあまり進んでいないものだ。それを炭火で
焼く。ソースはヤシの果肉とグラメラを陶器の炉で4時間加熱する。レシピはムルディ爺
さんの残したものが代々この一家に伝えられていて、それを使ってベティの兄弟姉妹のふ
たりもそれぞれバンドン市内の別の場所に同じ看板を掲げた。[ 完 ]