「最初の将軍(1)」(2023年02月20日)

1948年12月19日、インドネシア国軍は総司令官スディルマン将軍に率いられてジ
ャワ島内の長征を開始した。ヨグヤカルタの国軍総司令部を後にして、遠くクディリまで
の道程を、ジャワ島の要所を制圧したNICA軍に反撃を与えながら巡回して国軍の落ち
着き先を定めるのが目的だった。同時に、ジャワ島東部で国軍に参加しないまま個別にゲ
リラ闘争を行っている民兵組織を軍の指揮系統に組み込んで、国軍組織により大きな爆発
力を持たせることも重要な目的のひとつになっていた。

国軍が長征に出た背景には、降伏しようとしない共和国の国軍総司令官を捕らえて組織的
な武力反抗を根絶やしにしようとする意図で編成されたNICAの特別追跡部隊から逃れ
る目的もあったのである。


ヨグヤカルタを落ち延びるに当たってスディルマン将軍はヨグヤ市内ビンタラン地区の官
舎でさまざまな書類を焼き捨てた。現在その建物はスディルマン大将軍サスミタロカ博物
館になっている。ガトッ・スブロト、TBシマトゥパン、AHナスティオン、サルビニ、
スパルジョ・ルスタム、チョクロプラノロたち国軍の要も同行した。

軍は最初バントゥルを目指して粛々と南に向かった。長征軍団が通過した土地のリストは
次のような長大なものになる。現在、インドネシア軍事アカデミーを卒業するための条件
として、その中の一部およそ百キロを歩くことが士官候補生たちに義務付けられている。
パルバパン→バクラン→クレテッ→グロゴル→パラントリティス→カラントゥガ→パンガ
ン→パリヤン→プライェン→シヨノ→セマヌ→ブドヨ→プラチマントロ→プロ→プロモコ
→ウリヤントロ→ウォノギリ→ジャティスロノ→プルワントロ→スモロト→ポノロゴ→ジ
ェティス→サンビッ→ギンデン→サウォ→トゥンパップカン→ギンデップ→トレンガレッ
→ブンドレジョ→カランブレッ→クディリ→カランノンコ→ゴリマン→バジュラン→サラ
ムジュデッ→マクト→グダンクルトゥッ→ワテス→セラン→ジャンブ→ワヤン→バニュト
ウォ→スダユ→ワルンブン→グヌントゥクル→サウォ→ギンデップ→トレンガレッ→カラ
ガン→スルウェタン→ドンコ→パングル→ボダッ→グビユル→プリンガプス→ウォノシデ
ィ→クトゥラ→ウォノクルト→トゥガロンボ→ムジン→ガンバル→ソボ


クレテッに到着したのはその日の日没時で、県令たち地元行政官が一行を歓迎した。クレ
テッに数日滞在し、これから目指すウォノギリへの道程と地域一円におけるNICA軍進
出状況を偵察するために、いくつかの部隊が先行した。戦闘行動を伴う強行偵察も必要に
応じて展開された。

この長征に軍の要人が家族を同行したのは、家族がNICAに捕らえられて人質にされる
のを避けるためでもあった。スディルマンの妻はそこで自分の宝石装身具類を売り払い、
軍資金の足しにした。

一行はウォノギリから更にポノロゴに向かう。ポノロゴでスディルマンはとあるウラマの
家に泊まった。ウラマは身体の弱っている将軍に杖を献じた。その時期、スディルマンは
既に担架で担がれて旅をする状況になっていた。

NICAへの降伏を拒否して国軍を落ち延びさせる長征に出たとき、スディルマンは既に
健康を損なっており、肺のひとつが駄目になっていたのだ。その身体でジャングルの中を
踏破する旅に出たのは、軍人らしい所業だったと言えるだろう。その旅でかれの健康はま
すます悪化し、調子が最悪になったときは担架に寝そべって運ばれた。[ 続く ]