「最初の将軍(2)」(2023年02月21日)

トレンガレッの近くで一行は国軍第102大隊所属の警備部隊に行く手を阻まれた。警備
隊長は国軍総司令部の要人の顔を知らない。おまけに一行はNICA追跡部隊の目をくら
ますために軍服の着用をやめていた。一行が軍用地図やメモ、通信書類などを持っている
のをいぶかしんだ警備隊長は、かれらがNICAのスパイではないかと疑ったのである。
NICAに通じるプリブミがいかにたくさんいたかということを、その事件は物語ってい
るかのようだ。

報告を受けた大隊長がやってきて総司令官閣下の一行であることが明らかになり、クディ
リの国軍司令部に連絡を入れて車を手配させ、一行は迎えに来た車でクディリに入った。
そのあと、一行はあまり日を置かずに12月24日、クディリを後にした。そのとき、N
ICA軍はクディリに攻撃をかける準備を進めている最中だったのだ。クディリへのスデ
ィルマン到着の情報がNICA側に入っていたということだろう。


クディリを出てから、スディルマンは影武者を使ってNICAの目を欺くことにした。人
相風体が自分に似ているヘル・ケッセル少尉に自分の着古しを着用させ、一個中隊を付け
て南へ進ませた。ホンモノは反対に北へ向かう。12月27日にカランノンコ、そして1
月9日にジャンブに着いた。

バニュトウォでは、NICA追跡部隊に対する邀撃作戦を実施して一週間以上滞在したも
のの、状況を逆転させることはできなかった。NICA部隊がバニュトウォに接近して来
たため、一行はまた慌ただしくそこを去らなければならなかった。

ふたたび密林と原野を抜ける行進が始まり、1949年2月18日にラウ山中のソボに到
着。この地が隠れ場所として安全であることを確信したスディルマンは、そこに国軍総司
令部を置き、ヨグヤカルタから持ってきた無線通信機で国内各地の国軍部隊にゲリラ戦争
活発化の指令を発した。ラウ山の高原は電波発信に便宜を与えた。

総行程1千キロを超える長征を経て、国軍はゲリラ戦争のために東ジャワ州パチタン県ソ
ボに総司令部を移したのである。ゲリラ戦争を全国展開するための総司令部だった。いく
ら武器兵器の性能に差があっても、消耗戦を続けて行けば最後には人間の数が勝敗を決め
るだろう。ゲリラ戦はそれに最適な戦争形態ではないだろうか。

この長征に随従したスディルマンの個人医師はスディルマンの健康を、ひいてはその生命
を、保たせることに最大の努力を払った。スディルマンは後にその功績を称揚して自分の
車、ウィリスジープを医師に与えた。そのジープはジャカルタのSatria Mandala博物館に
収蔵されている。


一方NICAは、スディルマン将軍を逮捕したというニュースをラジオで流し続けた。各
地で激しくなったゲリラ戦争を弱めるための神経戦だ。お前たちに戦闘指示を出している
のは本当のスディルマン将軍ではないという話を聞かせて、戦闘行動をためらわせること
を目的にしていた。

その対抗策として、国軍部隊が制服を着て世界中の目に触れる戦闘行動を行い、共和国の
軍隊が依然として健在であることを世界中に示す作戦をスディルマン総司令官が指示した。
それが後に3月1日黎明総攻撃の名前で国軍史に輝く勝利ともてはやされた作戦だ。
[ 続く ]

                 ーー*ーー