「シティ・ヌルバヤ伝説(後)」(2023年02月24日) 小説「シティ・ヌルバヤ」の舞台になったパダンの町とその周辺地域の住民で、今その小 説を読んでいるひとがいるだろうか?あるいは少なくとも、1922年に初版が出されて から既に20回以上も版を重ねているその小説を中学高校時代に読んだ若者世代はいるだ ろうか?残念なことに、いなかったのだ。 2006年第2スメスターにパダン国立大学のインドネシア言語文学教育学科2クラスと インドネシア文学学科1クラスの合計3クラスの学生に対してわたしが行ったアンケート 調査からそのことが明らかになったのである。小説「シティ・ヌルバヤ」を読んだことの ある生徒はひとりもいなかったのだ。 しがし全員がシティ・ヌルバヤという主人公と、そして物語のあらすじを知っていた。シ ティ・ヌルバヤの墓がパダン山にあることも知っていた。シティ・ヌルバヤという人物を 知ったのはシネトロンを通してだったと多くの者が認めたが、中には小説の要約を読んだ 者もいた。 < 劣化 > 既に世界の伝説になってしまった、シェークスピアの演劇作品「ロメオとジュリエット」 にも似たような状況を類比することができる。この現代にその文学作品を読む人間はきわ めて稀だが、それでも文学研究の素材にはなっているのである。インドネシアの若年世代 はロメオとジュリエットが悲恋物語であることを知っており、それ以上でも以下でもない と認識しているだけだ。 つまるところは、ウマル・ユヌスが指摘した点が真理を突いているということなのである。 口承文学の行き着くところは教訓的価値だけが残されて、その作品に収められていた哲学 的価値や倫理的価値は消失してしまうのである。言い換えるなら、シティ・ヌルバヤもロ メオとジュリエットも、それを愛好する社会の口承性によって劣化してしまったと言うこ とができる。 シティ・ヌルバヤは過去のならわしである強制結婚の犠牲者であり、一方ダトゥッマリン ギは吝嗇で若い娘を好み、シティ・ヌルバヤの父に返済不能な金を貸し付けてその娘を自 分の第四妻にせざるをえないように仕組んだ悪人である、とほとんどの学生が答えたのを 間違いとは言えない。 だがしかし、シティ・ヌルバヤは父親に強制されてダトゥッマリンギの妻になったのだろ うか?ダトゥッマリンギは本当に悪人なのか? そのステレオタイプな定義付けは小説を読んだことのない民衆の思考世界に貼りついて、 伝説と化してしまった。その点において、モダン著作文学でないカバ「マリンクンダン」 に対する民衆の理解とシティ・ヌルバヤは同じものになっている。 小説の中では、シティ・ヌルバヤはその老齢の男との結婚を父親に無理強いされたのでな く、シティは親の負担を軽減させようとして自ら進んでその結論を下した様子が描かれて いる。ダトゥッマリンギについても同じだ。かれはオランダ植民地政庁の暴政に抵抗して 立ち上がった闘争家だった。反乱に加わったかれは植民地軍のプリブミ兵士に殺された。 そのプリブミ兵士こそ、シティのかつての恋人だったシャムスルバッリだったのだ。 1922年に初版が発行されたマラ・ルスリ著「シティ・ヌルバヤ、愛は届かない」とい うモダン文学作品が持っていた価値に劣化が起こったことをそれらのすべてが示している。 他面では、その作品は今日にいたるまでインドネシアでもっとも有名なモダン文学小説に なっている。そればかりか、登場人物たちに伝説化が起こったのだ。インドネシアの民衆 は依然として口承文化に近いところに住んでいる。読書愛好社会への道がまだまだ遠い遥 かな道であることをそれは意味している。[ 完 ]