「bahwaとkalauは置き換え可能?」(2023年02月27日)

ライター: 文司、ヨス・ダニエル・パレラ
ソース: 2008年9月19日付けコンパス紙 "Bahwa... dan Kalau/Jika..." 

今やKomisi Pemberansasan(Pemberantas) Korupsiはその権限と職務に沿って動く時代だ。
事件の取調べに関する記事の中でわれわれは、bahwa...やkalau/jika...といった結束性
を示す言葉をしばしば耳にする。しかしながら、その両者の間では話し言葉と書き言葉で
意味が異なっていることを忘れてはならない。ましてや、フォーマルな話し言葉と非フォ
ーマルな話し言葉においておやだ。新聞の記事に引用された容疑者の言葉にもとづいて、
わたしはbahwaとkalau/jikaの用例を拾ってみた。
「buktikan kalau itu benar」という文を記者は容疑者の言葉として何度も書いている。
「ia menambah kalau uang itu dibagikan di ruang kerjanya」という文もあった。

それらの文中のkalauの用法は判事や検事に異なる理解をもたらすものになる。ひとは事
実にもとづいて証明を行うのである。だからそれらの文では、kalauでなくbahwaが使われ
るべきなのだ。「buktikan bahwa itu benar」「ia menambah bahwa uang itu dibagikan 
di ruang kerjanya」というように。

結束性においてbahwaは事実を伝えるものだ。一方kalauは仮定あるいは比較対照の意味を
もたらす。聴者が期待するのは「kalau benar, maka...」なのである。あるとき、元大判
事のビスマル・シレガルの語った言葉がこのように報道された。

「ia (BS) juga menyayangkan sikap Mahkamah Agung RI yang terlalu cepat mengeluar-
kan pernyataan kalau majelis hakim yang menangani Adelin Lin bersih」
そのkalauはbahwaに変えられるべきだろう。majelis hakim yang menangani Adelin Lin 
bersihは一個の事実なのだから。

国連の役員が出席しない真実と友情コミッションの関連で、アスマラ・ナババンはこう語
った。「... Sejak awal mereka (KKP) seharusnya sudah paham kalau tidak akan ada 
kerja sama internasional ...」かれが伝えたい意図を描くのにkalauの語は失敗をもた
らしている。インドネシア語使用者は読者聴者を混乱させないために、bahwaとkalauの結
合性の違いを認識しなければならない。


判事や検事は容疑者や被告が事実に対してjikaを使ったとき、「それはbahwaなのかjika
なのか?事実なのか、推定なのか?」と即座に問いただすべきだ。なぜなら容疑者や被告
が故意にbahwaでなくkalauを使う可能性があるからだ。言葉を使うというのは、叙述や著
述という実存物を生むための方法に即して思考するということではなかったろうか?

言葉を使うというのは言葉を並べて上手に文を作るということではない。人は嘘を、聞く
人に理解されるように言葉を組み立てて、つく。嘘つきは言葉を正しく上手に組み立てる
能力を持っているのである。インドネシア語のomong kosongはその点を的確に衝いた言葉
だ。オモンとは言葉を組み立てて使うことであり、コソンはその話の内容が実在しないこ
とを意味している。それが嘘というものではないか。


2009年総選挙キャンペーン期間に立候補者たちは言葉を組み立て、言葉を使う。有権
者はそのメッセージが中身のあるものなのかコソンなのかを見極めなければならない。国
民がオモンコソンと言うような事態になってはいけないのだ。

bahwaに関して、わたしはいつも1945年憲法序文の文章を思い出す。  「Bahwa 
sesungguhnya Kemerdekaan itu ialah hak segala bangsa dan oleh sebab itu, ...」
最初の1945年憲法を作ったひとびとの思考と語法の正確さをわれわれはそこに見るの
である。