「Bahkan,Justru,Malahの使い分け」(2023年02月28日)

ライター: インドネシア語文法学者、リー・チャルリー
ソース: 2011年6月10日付けコンパス紙 "Bahkan, Justru, dan Malah" 

インドネシア語のbahkan, justru, malahは機能だけがあって語義を持たない限定詞だ。
その三つの語は文と文を結ぶのでkata sandang penghubungと呼ばれている。それらの間
では機能に違いがあるのだが、その違いはたいへん微妙なため、時に最適な語を選択する
のが困難になり、間違いを犯すこともある。

bahkanという接続限定詞は普通、たがいに意味を強め合い質的な高まりに向かうふたつの
文を繋ぐのに使われる。たとえば:
Prestasinya terus menanjak, bahkan sudah mendahului prestasi kakaknya.
この文のbahkanは第一文Prestasinya terus menanjak.と第二文のPrestasinya sudah 
mendahului prestasi kakaknya.をつないでいる。bahkanの後にくる文は先に置かれた文
よりも進んだり向上した意味を持っていなければならず、反対になってはいけない。

justruは相反する意味を持つふたつの文をつなぐのに使われる。たとえば:
Kehadirannya tidak mendamaikan, justru membuat keruh suasana.
普通、反意というのは強いものであり、justruの後にくる文は先に置かれた文を否定する
ものになることが頻繁に起こる。

malahは異なる状態や事実を示すふたつの文をつなぐ機能を持つ。しかしその二文は正反
対の関係を示さず、また質的低下をも示さない。malahの前後に置かれる文は普通、反対
の意味になっているのだが、後に置かれた文は反対のことがらでなくて、より悪い状態を
示すものになる。たとえば:
Diminta berhenti, dia malah berlari.

上で述べたように、その三つの限定詞の機能の差異はたいへん微妙であるため、しばしば
用法に間違いが起こり、しかもその間違いにだれも気付かないことも起こる。

一見すると、次の文は何も間違っていないように感じられる。
Prestasinya terus menanjak, malah sudah mendahului prestasi kakaknya.
だったらbahkanはmalahに置き換えることができるではないか。

いや、そうではない。つながれている二つの文はより向上している事実を示しているのだ。
だからそこに選択されるべき接続限定詞はbahkanなのであり、malahではないのである。

malahが選択されるべきケースは状況が悪化している内容を述べる文だ。たとえば:
第一文 Prestasinya terus menurun.
第二文 Prestasinya sudah tertinggal dibandingkan dengan prestasi adiknya.
これをつないだとき、malahの使用が適正になる。
Prestasinya terus menurun, malah sudah tertinggal dibandingkan dengan prestasi 
adiknya.

Bukannya menolong, ia malah minta tolong.という文をわれわれは間違いだと思わない。
しかし正しいのはBukannya menolong, ia justru minta tolong.なのである。なぜなら、
menolongとminta tolongは正反対の意味になっているからだ。malahとjustruも本当は置
き換えができないのである。

justruとmalahの語法の違いは、justru karenaとmalah karenaという形で比べたとき、よ
り明白なものになる。
(1) Justru karena dimanja, adik menjadi nakal.
(2) Malah karena borosnya, ia kini terpaksa berutang.
それらの文のjustruとmalahを置き換えると意味がおかしくなり、聴者読者に受け入れら
れがたい文になる。