「最初の将軍(8)」(2023年03月01日)

ロード・キラーンはそんな協議の不調をものともせずに精力的に働きかけを続け、10月
7日にジャカルタのイギリス総領事公邸で共和国とNICAを再度協議のテーブルに着か
せた上で、AFNEI軍撤退のプロセスを確定させた。各地に駐留しているAFNEI軍
は1946年10月24日からNICA軍への引継ぎを行い、その引継ぎが終わればイン
ドネシアから撤退することが合意されたのである。AFNEI軍の撤退が完了したのは1
946年11月末だった。

三者協議が終わったあとも、共和国とNICAの政治交渉は継続した。最終的にチルボン
に近いリンガルジャティ村で11月10日から二者間協議が行われて、15日にリンガル
ジャティ協定の調印が行われた。この協議でもロード・キラーンが両者の間を取り持って
いる。


そんな一連の協議の流れの中で、国軍責任者が協議に加わるシーンが当然起こった。スデ
ィルマン総司令官がジャカルタを訪れたのは、それが理由だったのだ。要するに、ジャカ
ルタに呼ばれたのである。

スディルマンとウリップ・スモハルジョは共和国軍を代表して、特別仕立ての列車でジャ
カルタに向かった。列車内には完全武装の警護部隊が同乗している。10月21日に列車
がジャカルタとブカシの軍事境界線に達したとき、NICAの現場指揮官が通過を拒んだ。
警護部隊の武装を解除しなければジャカルタに入ることを許さない。スディルマンは怒っ
た。軍総司令官が丸腰の警護部隊に囲まれて敵陣の中を通ることなどありえない。ジョグ
ジャに引き返せ。

スディルマンとウリップの到着を待っていたスタン・シャッリル首相とシェルマルホルン
オランダ王国代表はかれらがいつまで経ってもやってこない理由を知り、NICAの現場
部隊には儀礼を持って通行を許可するよう指示が出され、スディルマンには詫びを入れて
再度の来訪を促した。


こうして11月1日、ヨグヤカルタからの特別列車がマンガライ駅に到着し、総司令官一
行は住民の歓呼の声と「ムルデカ」の雄叫び、そして在ジャカルタ共和国要人たちに迎え
られて、そこからコニングスプレイン東にある宿舎Hotel Shutte Raaffまで、道路の両側
を埋めるひとびとの前を数台の車に分乗してパレードさながらに移動した。

鉄道線路はもちろんコニングスプレインのガンビル駅まで続いているのだが、NICAの
手中に落ちたジャカルタのNICA総本部の眼前まで行くことを嫌ったのか、共和国要人
たちはみんなその手前のマンガライで列車を降りるのを常にしていたから、スディルマン
もその慣習に倣ったとされている。

ホテルシュッテラアフは1949年5月発行のジャカルタ電話帳によるとKoningsplein 
Oost 11-12と住所が記されており、そこは現在、東ムルデカ通りのナショナルギャラリー
北側にあるグラハプルタミナの敷地内になっている。

そこからもっと北に進むと、ガンビル鉄道駅北端と道路をはさんで向かい側にある運輸省
研究開発庁や交通安全国家コミッションが入っているビルがあり、AFNEI軍総司令部
はそこに置かれていた。スディルマンとウリップはそこに招かれて種々の会議を遍歴した
ようだ。そして11月4日に最終結論が出され、軍人同士の停戦協定が実現した。その日
ガンビル広場(コニングスプレイン)でイドゥルアドハの集団礼拝が行われ、スディルマ
ンは大勢のジャカルタ住民と一緒に礼拝に加わった。スディルマンが混じっていることを
知った住民の中に「ムルデカ」の叫びが広がり、大勢が握手を求めてスディルマンを取り
囲んだそうだ。

スディルマンがいつまでジャカルタに滞在したのか、明確な資料がない。東プガンサアン
通り56番地でかれがスタン・シャッリル首相と会見したときの写真が1946年11月
15日付けで残されており、それが日付の明白な最後の資料になっている。その日以降に
かれがジャカルタの土を踏んでいることを示す資料は存在しない。[ 続く ]


                 ーー*ーー