「最初の将軍(9)」(2023年03月02日)

わが身を引き裂け。わが死体を切り刻め。しかしわが敵が誰であろうと、紅白の砦に守ら
れたわが魂は生き続け、支持を求めるだろう。さまざまな苦難に心を惑わしてはならない。
なぜなら、理想に近付けば近付くほど、われらが蒙る苦難は一層重みを増すものなのだか
ら。 ー 総司令官将軍 スディルマン

スディルマンがペタに入って大団長の地位に就く前、かれはソロのムハマディヤ教師養成
学校を経済上の理由で中退していたが、チラチャップのムハマディヤが作ったオランダプ
リブミ学校HISの教師になり、更にムハマディヤ小学校の校長をも務めた。かれはその
ころから、周囲の人間の信頼を集めるリーダーシップが匂い立っていたようだ。教員の免
状を持たない人間が教鞭を執り、おまけに校長に推挙されたのだから。

日本軍政が始まると、日本軍は全国の私立学校を閉鎖した。チラチャップで名前の知られ
た人物になっていたスディルマンは州参議会議員になって日本軍政の顧問役にまわった。

その時期に日本軍はスディルマンという人物に目を付けていたようだ。ペタの発足に際し
て、かれをバニュマス大団の指揮官にする意向が州行政から起こり、かれはボゴールの義
勇軍幹部錬成隊に入って大団長になるべく教育と訓練を受けた。一介の熱血教師がペタに
志願し、大団長になった末に国軍総司令官の地位に上った、という素朴な話では、どうや
らなさそうに思われる。


国軍最初の総司令官選挙のとき、TKRに参加した要人たちのあいだで投票が行われた。
オランダ王国東インド軍で将校の地位にあった経験を持つウリップ・スモハルジョとスデ
ィルマンが最後に残った。その最終投票でウリップは21票、スディルマンは22票を得
た。そのとき、スディルマンは大先輩格のウリップに遠慮して、自分は降りると言い出し
た。だがスマトラ各地の部隊長たちがスディルマン支持を強く表明した結果、投票通りの
結果になったそうだ。そこには日本軍対オランダ東インド軍という前歴の違い、しかも長
い軍歴を持つ東インド軍士官と軍事経験を持たない日本軍補佐役のペタ指揮官という違い
が影を投げかけていたようだ。東インド軍の軍歴を持った軍上層部のひとびとの多くは、
戦場におけるスディルマンの戦術を低く評価していたという話もある。

総司令官選挙のときにスディルマンを選ばなかったひとびとは、かれがたいした軍人歴を
持っておらず、日本軍の教育訓練を得ただけの一介の青年という背景に危惧を抱いたよう
に思われる。特にペタ大団長という前歴に反対者は不満を抱いたと言われている。新生イ
ンドネシア共和国の軍隊が日本軍の育てた人間に統率されることは、この共和国が日本の
傀儡であるという声の真実性を印象付ける方向に利用されかねないと言うのだ。

だが日本の傀儡という宣伝は共和国自身が四年半の歳月をかけて世界の耳目にそれを否定
して見せた。スディルマン自身はもっと早く、その身にかぶせられた危惧をアンバラワの
戦いで打ち砕いて見せている。


国防大臣アミル・シャリフディンは左翼活動家であり、国防機構をその思想の実現に使う
ことを画策して国軍の外に左翼戦闘組織を作り、また国軍を左傾させようとして種々の動
きを見せた。それがスディルマンとウリップに政治的な関りを拒否させる方向性を与えた。
国政自体がさまざまな思想によって渦を巻いている状況下に、軍が特定勢力の道具にされ
ては国家としての道を誤ることになる。軍は国民が求める国家を安定させるためのものに
ならなければならないのだ。[ 続く ]