「最初の将軍(10)」(2023年03月03日)

スディルマンは軍人として政治的な動きに一切関りを持とうとせず、部下にも政治に関わ
ることを戒めていた。かれは軍隊をプロフェッショナルな戦闘集団に作り上げることを目
標にし、文民優位の民主主義社会における最適な軍隊を根本方針に置いて誕生したばかり
の国軍を育てたのである。


アダム・マリッはその著「共和国に捧げる」の中で、二者一体はスカルノ=ハッタだけで
なく、他にもうふたつある、と書いた。スタン・シャッリル=アミル・シャリフディンと
タン・マラカ=スディルマンだ。

タン・マラカにとって8・17独立宣言は掛け値なしの絶対死守アイテムだった。1パー
セントの割引も許さない。だからかれにとって、オランダとの政治交渉の駆け引きをもて
あそぶ共和国政府指導者たちの振舞いは幼稚で憂鬱なものだった。中でも、その交渉の舞
台で主役を演じているスタン・シャッリル首相の外交的政治路線に強い批判を向けた。独
立とは百パーセントの独立でなければならない。交渉による独立が百パーセントになるこ
とはありえない。

政府の姿勢を変えさせることを目指して、タン・マラカは1946年1月4〜5日にプル
ウォクルトで大会議を開催した。139の政党や政治団体・軍・民兵組織などを集めて開
かれたこのコングレスにスディルマンは軍を代表して参加した。それがスディルマンとタ
ン・マラカの出会いになった。お互いの考え方が一致していることをふたりは認識したの
だ。その後、タン・マラカはしばしば国軍総司令官を訪問するようになった。

プルウォクルトのコングレスでTKR代表者スディルマン将軍はこう語った。「百パーセ
ントに満たない独立に甘んじるくらいなら、原爆を身に受けるほうがマシだ。」タン・マ
ラカは自著にそう書き遺している。

プルウォクルトでタン・マラカの主張を聞いた参加者はそれに対する回答を用意して同年
1月15〜16日にソロに集まり、ほぼタン・マラカの主張に沿ったミニマムプログラム
を採択した。合議文に141の団体組織が署名した。


スディルマンは、曖昧さを嫌う、妥協を好まない性格で、しかも部下思いの上司だったこ
とで知られている。NICAの第二次軍事攻勢によってヨグヤカルタが陥落したとき、ス
カルノとハッタは捕らえられて別の土地に幽閉された。スディルマンはそれに倣わず、ゲ
リラ戦争を継続するために長征に出たのである。政治家と軍人という立場の違いはあって
も、それぞれの行動を発現させた性格の違いをわれわれはそこに見ることになる。

しかしかれらが互いに自分の主義主張にしたがって異なる行動に出たわけではない。国家
に奉仕する軍隊を率いるスディルマンはゲリラ長征に出発する前、ヨグヤカルタ王宮に避
難したスカルノとハッタを訪れて国家指導者をその抵抗戦に誘っているのだ。スカルノと
ハッタはスディルマンの誘いを拒否した。自分たちが受けている仕打ちを国際世論に示し
てオランダ批判を強めさせることの方が、オランダ植民地主義者の意気をくじいて独立共
和国を維持するのにより効果的だとふたりは判断したのだろう。そしてスディルマンの計
画した国軍のゲリラ長征には祝福を与えて出発させた。

タン・マラカにとって「独立は値引きなし」であり、スディルマンにとって「軍は降伏な
し」だったのだ。かれらふたりにとって、独立インドネシアの中にオランダの足の踏み場
は存在しなかった。[ 続く ]