「最初の将軍(11)」(2023年03月06日)

ヨグヤカルタの独立共和国政府の中も、さまざまに異なる思想を持つ政治家たちで渦巻い
ていた。どの思想にも偏することなく、あらゆる思想を呑み込んで最大多数を同意させる
力を持つスカルノが国民の絶対的な信頼と支持を集めていたのは明白であり、スカルノが
理想とするインドネシアが国民の理想になっていたのは、この共和国が5歳になるまで間
違いのないところだったと言えるだろう。

共産主義や社会主義に傾いた政治家、異民族が生んだそれらの思想よりも伝統文化と自民
族の尊厳をより強く信奉する政治家、異民族が生んだそれらの思想に対立する宗教に立脚
する政治家、それらの三角グラフのどこかに座標を置いて右往左往している政治家たちが
国政の場に渦巻いていたのがその時期の百鬼夜行図だったのではないだろうか。


値引きなしの独立を国民に煽るタン・マラカは国民の諸団体を集めて合唱させ、スタン・
シャッリル政府の方針に反対して現政府の解散を要求した。だがスカルノの現実主義はそ
の請願を蹴った。

スカルノとタン・マラカが犬猿の間柄だったということでは決してない。ふたりは互いに
相手の人物の偉大さを認め合った仲であり、スカルノはタン・マラカという人物の器量を
十分に理解していた。「もしも自分の身に何かが起こって何もできなくなった時、革命の
指揮者の座は革命運動の熟達者に譲られるだろう。そのときわたしの座に着く者はタン・
マラカだ。」という言葉が1945年10月のスカルノ政治声明の中に盛り込まれている。


一方、スタン・シャッリルの側も反対勢力に反撃した。内閣解散を請願した諸団体の指導
者をアミル・シャリフディンの擁するインドネシア社会主義青年団が3月17日に逮捕拘
禁したのである。タン・マラカ、アダム・マリッ、ハイルル・サレ、ムワルディ、アビク
スノ、ムハマッ・ヤミン、スカルニ等々の社会的有力者が活動を停止させられた。

国政の内部コンフリクトが現象としての形を取るに至ったことを国軍総司令官は黙視する
ことができなかった。スディルマンは拘禁されている諸有力者の解放をスダルソノ少将に
命じた。その命令は口頭でなされたとされている。

その命令を果たしたスダルソノは更にタン・マラカたちスタン・シャッリル首相反対派の
計画に従って、1946年6月26日に現首相をスラカルタで拉致した。それではまるで
クーデターだ。スカルノの命令で国軍はスタン・シャッリル首相を7月1日に釈放した。

タン・マラカとその同志たちと共に7月3日、スダルソノはスカルノを訪れて現首相を解
任するよう求めたが、スカルノに耳を傾けてもらえるような話ではなかった。アミル・シ
ャリフディン国防相はスダルソノを逮捕し、7月3日クーデター未遂事件として軍事法廷
を開いた。

最終的に裁判でクーデターは立証されなかった。その法廷でスディルマンも証言を行った
が、スディルマンは法廷でタン・マラカたちの意向に即した内容の、スタン・シャッリル
首相への批判めいた言葉を一言も発しなかったそうだ。この事件がインドネシア共和国の
最初のクーデターとして歴史に記されている。


タン・マラカはクーデター容疑から解放された後、ヨグヤカルタに滞在して在野から反政
府の立場で政治批判を続けていたが、1948年12月19日のジョグジャ陥落のために
共和国の首都を去って東ジャワ州マランのブリンビン村に身を隠した。反政府勢力の大物
のひとりなのだから、スタン・シャッリル現政府に忠実な国軍からの保護が得られるはず
もない。かれは地方部にいて現政府に反対するゲリラ組織を探した。サバルディン少佐の
率いる血も涙もない残虐で酷薄な国軍第38大隊がかれの眼鏡にかなった。オランダ人を
海の中に叩き落すことを、かれなら成し遂げるだろう。しかしサバルディンは東ジャワ各
地の国軍部隊とそりが合わずに衝突を起こしていたのだ。

1949年2月17日、第38大隊と他の国軍部隊が戦闘を交えて、サバルディン大隊は
消滅した。大隊の指揮官たちが逮捕され、更に19日に負傷しているタン・マラカもブリ
ンビン村で捕まった。[ 続く ]